でも今は昔と違います。「何だと? 死ねだと? おい、民衆が死んだらお前たち(取締りの警官など)はどうやって生きていくつもりなんだ?」と、こう言い返します。

私たちのような若い者は、捕まったり、どこかに連れて行かれるのが怖いので、そのようにはなかなか言えませんが、年寄りたちは、あまりにも憤りが溜まっているうえに、どうせもうすぐ死ぬんだからと、真っ向から戦うんです。「やい。民衆がいなくなったらお前らが民衆になって、お前ら自身を食わせてみたらいい。やってみやがれ!」とか。

ジャンマダンでは商売人たちが売り物をひっくり返しながら取締りと戦うこともあります。今ではもう、労働者は労働者たち同士で、ほとんどの幹部も幹部たち同士で集まると、ああでもない、こうでもないと不平不満を露わにするんです。

保安員も保安員同士で、保衛部員も保衛部員同士、皆不平不満を言い合っているんです。ただ、その不満を民衆の想いとして堂々と主張する、言わば民衆の怒りに火を付けて爆発させる〈誰か〉がいないだけなんです。はっきり言って、今の朝鮮で〈「反動」でない人間〉なんていません。皆、不平不満を持っています。

Q:「反動」でない人間はいない......。
ウ:昔は「反動」と言えば、一大事でみんな逮捕されていきました。今では(皆不満分子だから)「反動」ではない人なんていないという意味です。今や、誰が動き始めるのかが問題なんのです。反旗を翻して戦うかどうか。まだ誰も、そんな空気に火をつけられないんですが。

Q:〈英雄〉を待ち望んでいるということですか。
ウ:誰が〈英雄〉になれるでしょうか。

私もこれまで朝鮮で教育を受けて生きてきたのですが、よく分からないことがあります。文章で表されている朝鮮の政治の目標はとても良いじゃないですか? 人民のために働き、人民のために生きよう、党員たちはいつでも人民を率いて献身して働こうとか、皆でこの楽園を守って、われわれ民族の誇りと勇敢さを広めていこうとか。

こういった目標は良いのに、それを実際に執行する中間の官吏たちが悪いのか、もしくは国家が悪いのか、金正日が悪いのか、私には分からないのです。

今のような苦難はいつまで続くのでしょう。庶民がいつかはそれに勝つことができるのでしょうか......。毎日しんどいなと思っていても、それでも、いつか良い暮らしができる時が来るだろうとずっと考えてきたんです。

金日成時代に私は学生で、将来の暮らしをそれほど心配もしていませんでした。学校に通うときには制服も貰えたし、配給もありましたし。それなのに、いざ自分自身が生活戦線に飛び込んでみると(家族を養う身になると)、とてもやっていけないわけです。

いったいこの苦難がいつまで続くのか、庶民をこのような暮らしに追いやっているのは一体誰なのか、を考えるようになるんです。とにかく金正日時代になって庶民に与えられたものは何もありません。
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