西サハラ問題の経緯は複雑ではないが、史実のひとつひとつはあまり知られていない。現在までの略史を、要約して解説する。(岩崎有一)

◆密約によって割譲された西サハラ

西サハラにはかつて、アラブ語の一方言であるハッサニーアを話すサハラーウィと呼ばれる民族が、遊牧の生活を営みながら暮らしていた。アフリカが西欧諸国の植民地支配下に置かれていた時代、西サハラはスペイン領サハラとされていた。アフリカで次々と独立国家が生まれた1960年以降、そこでも独立を求める声があがりはじめる。1973年、サハラーウィのエル・ワーリーが中心となり、西サハラの民族解放組織であるポリサリオ戦線が結成され、スペインを相手に解放闘争を開始。アフリカにおける脱植民地化の流れに抗いきれなくなったスペインは、1974年にスペイン領サハラで人口調査を行い、1975年には住民投票を行うことを国連で約束した。

アルジェリアのチンドゥーフ郊外にある難民キャンプ内の国民レジスタンス資料館に展示されるエル・ワーリーの顔写真(左)。右は、ブラーヒム・ガーリーSADR現大統領(2023年筆者撮影)

1956年にフランスから独立を遂げたモロッコでは、1975年10月16日、モロッコ国王ハサン2世がモロッコ民衆に対し、“失地回復”に向けた「緑の行進」を呼びかけた。1975年11月6日、35万人の民衆による官製デモが組織され、モロッコからスペイン領サハラへ続々と越境。デモ参加者を守る名目で、モロッコ軍も帯同して越境した。当時スペインでは、政権内部は脱植民地化派と親モロッコ派に分裂しており、長期政権を率いていたフランコは危篤状態にあった。モロッコと事を構える状態になかったスペインは、「緑の行進」を阻止しなかった。

1975年11月14日、スペインはモロッコ、モーリタニアとマドリッド協定を締結する。これは、スペイン領サハラをモロッコとモーリタニアに割譲する密約だった。両国は南北から西サハラへの軍事侵攻を開始し、スペインは密約を交わしたまま撤退。これをもって、西サハラは地図上の空白地帯となる。ポリサリオ戦線の抗戦相手は、宗主国から南北の隣国へと代わった。

西サハラ全図(筆者作成)

◆2700kmの分離壁

南北から侵攻してきた軍を前に、サハラーウィ住民は二分される。祖国に留まらずに逃げたサハラーウィたちは、唯一の「誰も侵攻してこない国境」を目指した。アルジェリアは彼らを受け入れ、チンドゥーフに難民キャンプが生まれた。1976年2月、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言する。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍を追いやり、1979年に和平協定が締結。以後、ポリサリオ戦線とモロッコとの戦いが続いた。モーリタニアが占領していた地域に進出したモロッコは、1980年代、イスラエルの支援のもとで「砂の壁」と呼ばれる2700kmにおよぶ分離壁を建設し、壁沿いに地雷を敷設。この分離壁によって、西サハラは(モロッコ)占領地と(SADR)解放区に分断された。

解放区から見た「砂の壁」。遠景にモロッコの要塞が見える(2019年筆者撮影)

1988年、デ・クエヤル国連事務総長(当時)は、西サハラの帰属は住民投票の実施をもって決めるとする和平案を作成。両者はこの和平案に合意し、1991年に停戦した。同年、停戦監視と住民投票実施準備を主たる任務とする国連西サハラ住民投票ミッション(MINURSO)が設立される。以後、30年間の停戦状態が続いた。
2021年、西サハラ南端部の軍事緩衝地帯であるゲルゲラートでデモを行なっていたサハラーウィ民衆を、モロッコは軍をもって排除。これをポリサリオ戦線は停戦協定違反とみなし、応戦を開始した。現在も、交戦が続いている。

占領地のエル・アイウンに置かれたMINURSO本部(2003年筆者撮影)

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