国連は、西サハラはモロッコ領ではなく、西サハラ住民の代表はポリサリオ戦線であると結論づけていた。それでも、モロッコは緑の行進で“失地回復”を唱え、スペイン領サハラへの侵略を開始した。(岩崎有一)

◆蔑ろにされた国連の見解と見せかけのデモ行進

1975年5月、スペイン領サハラに国連非植民地化委員会の視察団が派遣された。同視察団は、ポリサリオ戦線を唯一の西サハラ住民代表であると報告書に明記した。

モロッコとモーリタニアは1974年に、国際司法裁判所にスペイン領サハラの領有権を主張する審査を求めた。1975年10月、国際司法裁判所は、モロッコおよびモーリタニアが当地域の主権を有していた史実はないとする諮問意見を発表し、この地での民族自決権の行使を勧告した。

この勧告に従ってすぐに民族自決権の行使が実現すれば、スペイン領サハラは独立を遂げることになる。そこで、モロッコ国王ハサン2世が企てたのが「緑の行進」だった。

1975年11月、“民衆が植民地宗主国(スペイン)を失地から追い出す”ための官製デモを組織し、当地への越境をはじめた。この時点ではすでに国際司法裁判所からモロッコの当地の領有権は退けられており、この越境行為には国際法上の正当性はない。

しかし、30万の民衆が植民地主義打倒に向けて“平和的に行進”する様子は、絵になる。あらかじめ構えていた世界各国のメディアがこの行進を一斉に報じた結果、国連視察団の報告と国際司法裁判所の意見と勧告は脇に追いやられ、ハサン2世の目論見通り、サハラは割譲されスペインは撤退した。

モロッコ旗がならぶ占領地のエル・アイウン中心部。「国王が西サハラを解放したもうた」と話すモロッコ人は多い(2018年筆者撮影)

◆狙いは西サハラだけでなく…

紛争の多いイメージを抱かれがちなアフリカだが、侵略戦争はまれだ。モロッコは、なにを根拠に、いつから西サハラを狙いはじめたのか。

モロッコのイスティクラール党の党首エル・ファーシーは、1956年の独立以降、「大モロッコ論」を唱えるようになった。これは、過去にモロッコの君主が遠征したことのあるすべての地点を線で結び自国の領土とする概念だ。西サハラとモーリタニアのすべて、アルジェリアの北西部、マリ北部までがモロッコに含まれることになる。

ハサン2世はこの大モロッコ論を利用し、領土拡大に向けた行動をとった。1960年にモーリタニアが独立した際にはこれを不服とし、1969年まで国交を結ばなかった。1963年には「砂戦争」でアルジェリア北西部に向けて攻撃を始めたが、アルジェリアに撃退された。そして1975年、スペイン領サハラへと侵略を開始する。

大モロッコ論の版図(筆者作成/出典:新郷啓子著『抵抗の轍』)

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