しかし、民族主義者であったレザー・ハーンはその後、英露の干渉に抵抗するようになり、ドイツへと心情的に傾斜していく。1941年、英露はイラン国内のドイツ人勢力を駆逐するという名目でイランに連合軍を進駐させ、レザー・ハーンを廃位に追い込んだ。しかし、真の目的はイラン国内の石油利権をドイツに奪われないためだった。

第2次大戦後、主権の回復と国内経済の復興のためには、イギリスに握られている石油産業を取り戻すことが必要である、という意識がイラン国民の間に広がり始める。それは瞬く間に国民的運動のうねりとなり、1950年、モハンマド・モサッデク議員を中心に進められた石油国有化に関する法案がついに満場一致で議会を通過する。同年モサッデクが首相に選出されるとともに、アングロ・イラニアン石油会社(アングロ・ペルシアン石油会社の後身)の国有化が宣言された。

こうしてイランは自国の石油資源を自国の権利として取り戻すことに成功したが、喜びも束の間、怒ったイギリスは世界中にイランの石油を買わないよう圧力をかけ、国際司法裁判所に訴えるとともに、国連安保理にも提訴した。これに倣い、西側諸国はイランの石油をボイコットし、イランは危機的な財政難に陥る。そして1953年、これまでイギリスが独占していたイランの石油利権に割り込む最大のチャンスと見たアメリカが、CIAの画策によって国王派にクーデターを起こさせ、モサッデク政権を転覆させてしまう。

こうして、わずか3年ほどで、イランの独立と民族主義の象徴であった石油国有化の夢は、大国の思惑に踏みにじられる結果に終わった。その後、イランの石油資源は欧米メジャーの管理下に置かれるとともに、アメリカの保護を得た国王による独裁政治が、1979年のイラン・イスラム革命まで続くことになる。
イラン・イスラム革命によって、イランにおける一切の権益を失ったアメリカは、現在まで一貫してイラン敵視政策をとり続ける。

クリントン政権はイラン・リビア制裁法(イラン及びリビアと多額の商取引をした外国企業を米国市場で制裁する法律)を発動し、イランの主たる輸出品である石油や天然ガスなどのエネルギー分野でイランと新たな契約を結ぼうとする国に圧力をかけ、契約を破棄させてきた。これまで幾度となく中国とロシアがイランに原子炉の建設を約束してきたが、アメリカによる圧力でことごとく中断された。

日本が2000年に開発権益を獲得したアーザーデガーン油田も、開発が決まれば日本から巨額な投資が流れるとして、ブッシュ政権は「核拡散防止とテロ対策」の面から日本に強く中断を求めている。

最近ようやく契約がまとまりつつあったインド・パキスタンへの天然ガスパイプラインの建設計画も、「イランに対して何らかの経済制裁が発動された場合、交渉継続を断念するつもりだ」とパキスタン首相が発言し、イラン政府はこの契約がいかに彼らにとって有益なものであるかを説明するのに必死である。

このような歴史的背景を持つイランに、欧米ロシアは、自分たちを信用し、核技術は完全に放棄するよう迫っているのである。ロシアが、今後、イランとの関係悪化やアメリカからの圧力で、核燃料の提供を突然反故にしないという保証がどこにあるだろう。そのときヨーロッパ諸国がイラン側に立ち、イランが納得する代替案を提示してくれる保証など、あるはずもない。
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