冬を目前にして緊急に対策が立てられないならば、人民は群れて死んでいくだけだという判断が、座り込みの人々の焦りに火を点けたのだ。
だがそれが口実となり、すぐさま武装軍人が動員されてその区域は封鎖、座り込みをしていた老人たちは拘束されて`集団的義挙`も強制中止・解散を余儀なくされた。

該当地域の関係者らは道所在地へ呼ばれて、老人を居住地へと追い払った。
日本はじめ外部の言論は、このような出来事について一言半句も報道しなかった。
脱北者ですらその記憶も薄くなり、世界も目を向けないまま、この`事件`は幕を閉じた。

近代朝鮮史のページには、多くの“憂国の士”が記録されているが、90年代の共和国の歴史に彼らが記録されるところはないのだろう。
その1年後、金日成の銅像周辺では年寄りの死体がしばしば発見された。
夜間の警備担当者の安全員(警察)の話によると、その死体は座り込みの老人たちであった。

1年前とは違って誰も訪れる人もなくなった静かなこの“聖地”が、忠実な党員と熱烈な愛国者にはそれでも安心して目を閉じられる最後の安息地になったのだろう。
そんなこととは何の関係もないかのように、銅像の前に伸びる大道路では、重たい背嚢を背負い、大小のリヤカーをひく群衆の波が生き延びるためにもがくように走り回っていた。
(2006/07/04)
脱北者パク・ヨンの“北朝鮮とニッポンと” TOP(第1回)

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