人物はとてもしっかりしていたが、実際に女癖が少し悪いらしかった。玄シンホの家は崩壊した。一緒に収容された母親も「管理所」で死んだ。「管理所」に収容されるときに離婚した妻が息子を引き取って元山で暮らしているという。

「管理所」にいた「移住民」の中に、元気のいい日本からの帰国者がいた。「総社長」と呼ばれていたその女性は、一九九〇年代末に収容されてきた。
皆が言うには、彼女の夫だか親戚だかが、在日朝鮮総連で特別な仕事をしていたという。彼女の名前は思い出せないが、とても珍しい名前であったことは確かだ。保衛指導員もわれわれも皆、彼女のことを「総社長」と呼んでいたので、それしか思い出せない。とても頭のいい女だったが、腰を悪くしてずっと床に臥せっていた。

他にも「ジェポ」の女がいた。やはり名前は思い出せないが、やはり変わった名前でよく喋る女だった。
「ジェポ」は皆一筋縄ではいかない人たちだった。われわれのような一般的な北朝鮮人は統制区域に収容されると、少なくとも表面上は事を荒立てず、黙々と仕事だけしていたが、「ジェポ」の人たちは違っていた。

あちこちに申訴して騒ぎ立てる。そのため「管理所」内の保安署(警察)に徹底してマークされていた。そして結局は、ひどく殴られて腰の骨が折れたりするのだ。「管理所」に収容されたのだからおとなしくしていればいいものを……。
「ジェポ」の話が出たのでついでに言うと、帰国同胞でもなく、日本人でもない、変わった人が一人、突然「方針」の対象となり「革命化合宿」に収容されてきたことがあった。二〇〇二年か二〇〇三年のことだ。

彼は日本に何度も行っていたという。日本を専門にして行き来していた人らしいが、日本語が実に上手だった。その人は対南関係ではない連絡所(注1)出身であった。

中央党や中央機関にいた人同士は「管理所」内でもとても仲がよく、会えばあれやこれやと話をするのだが、私もその関連で、ある人からその人物に関する話を直接聞かされたことがあった。
とてもまともそうな人だったが、どうして「18号」に収容されて来たのか、私も他の人たちも皆不思議に思っていた。
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