◆スペインの侵略と、ポリサリオ戦線の結成

19世紀に入りアフリカ大陸は次々と植民地化されていったが、西サハラも例外ではなかった。この地域には、スペインが侵略。1884年、アフリカ大陸分割を決定づけたベルリン会議により、西サハラは「スペイン領サハラ」となった。今も、西サハラにはスペイン語の話者が多い。

アフリカの年と呼ばれる1960年以降、アフリカ諸国はいっせいに独立を始めたが、スペインは依然、西サハラの領有を続けていた。1973年、サハラーウィのエル・ワリ青年が中心となってポリサリオ戦線を結成し、民族自決と独立を求めて武装解放闘争を開始する。

手前中央の顔写真は、エル・ワリ青年のもの。奥に見えるロゴには、ポリサリオ戦線の名がスペイン語で表記されている(チンドゥーフ・アルジェリア/Tindouf, Algeria 2019 撮影:岩崎有一)

国連は1975年5月に調査団を西サハラに派遣し、ポリサリオ戦線を、この地域の住民代表として認めた。また同年10月、国際司法裁判所は西サハラの帰属について、民族自決権の行使を勧告している。
ここで、スペイン領サハラがサハラーウィに返され、独立国家誕生にいたればよかったのだが、現実は、そうはならなかった。

◆偽りの返還運動とともに、モロッコが侵入

1975年11月、モロッコは「緑の行進」と呼ばれる、モロッコへの西サハラ返還を唱える民衆運動を組織し、西サハラに侵入する。この民衆運動を守る名目でモロッコ軍も越境し、実質的には武力侵攻を始めた。緑の行進の後、同年11月にスペインはモロッコ、モーリタニアとマドリード協定を交わした。この協定は、西サハラにおけるスペインの利権を担保することと引き換えに、西サハラをモロッコ、モーリタニア両国に譲り渡すという内容だった。この3国協定締結後、モーリタニアも南部から侵攻を開始。1975年にスペインは西サハラの領有を放棄し、1976年に撤退を完了する。

モロッコとモーリタニアの西サハラ侵攻により、多くのサハラーウィが難民となり、アルジェリア西部へと逃れた。アルジェリア西部の町チンドゥーフに生まれた難民キャンプを、アルジェリアは強力に支援。1976年、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国(RASD)の樹立を宣言した。現在も、RASDはチンドゥーフの難民キャンプを拠点に存続している。

西サハラのモロッコ占領地では、大通りから民家の屋内まで、いたるところでモロッコ国旗が掲げられている(エルアイウン・西サハラ/El Ayoun, Western Sahara 2018 撮影:岩崎有一)

その後、ポリサリオ戦線は、北と南から侵攻を続けるモロッコとモーリタニアに対し、襲撃戦を展開。1978年発足のモーリタニア新政権は、ポリサリオ戦線と停戦に合意する。1979年には和平協定を結び、RASDを国家として承認した。

いっぽうのモロッコは、スペインがモーリタニアに分割譲与した地域にまで侵攻を進めた。そして1980年代、イスラエルの支援のもと、モロッコは西サハラ北東部から南西部にかけて約2700kmに及ぶ「砂の壁」と呼ばれる分離壁を建設。この壁により、西サハラはモロッコ占領地とRASD解放区に隔てられることとなる。

ポリサリオ戦線とモロッコ軍との戦闘が長期化するなか、国連主導による西サハラの帰属をめぐる住民投票の実施と停戦に双方が合意を示し、1991年、国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が発足した。しかし現在まで、住民投票の実施には至っていない。

RASD解放区で、「砂の壁」に向かってRASDの国旗を振るサハラーウィ。砂の壁は、一切の往来を遮断している(チンドゥーフ・アルジェリア/Tindouf, Algeria 2019 撮影:岩崎有一)