石丸:ふーむ。長兄さんの同級生がそう言ったわけだ。
ヤン:うちのアボジ(お父さん)はああいう性格で、万歳!も叫びつつ、「こういうところが組織のあかんとこや」と率直に言う人だったので、組織の中では、もうめちゃくちゃうざったく思われてたので有名だったんです。だから、ヤン・コノ、つまりオッパは、うちのアボジを黙らせるための決定的な人質だと。子供3人も行ったらさすがのヤンさんもおとなしくなるだろう、みたいなことが理由だったというわけです。

「大げさに言ったらそういうこともあるのかな」じゃないですよ。「間違いない」ってオッパの同級生たちが言うんです。もう私は本当にめまいがするくらいびっくりして。いったいどんな時代だったのか、当時の朝鮮大学校って、今なんかは問題にならないくらい左寄りというか、文革みたいなもんじゃないですか。

石丸:そんなことがあったんだ・・・・・・。
ヤン:うちのオッパはどんなつもりで北朝鮮に行ったんかなと思って。死んじゃいましたけどねえ。

石丸:お兄さんが指名されとき、ご両親はどんな反応だったんですか?
ヤン:さすがに長男が指名されたときに、「なんでや?」っていうことになって、アボジもオモニもびっくりして。下二人行かせたあと、長男は朝鮮大学校を出て、総連の仕事をするだろうから、趣味で音楽聴いて、クラッシック喫茶行ければええやみたいに考えてたと思うんですよ。

だから最初指名されたときは、「総連の仕事をさせますんで長男だけは勘弁してくれ、一人ぐらい残させてくれ」って、総連の中央にアボジも一生懸命電話したって言うんですよ。人にも会いに行ったし。でもことごとく、「(幹部としての)模範を見せろ、アカン」という感じで。

石丸:組織決定に従わされたわけですね。
ヤン:当時グリル喫茶して商売してたオモニは、ノイローゼになりそうだったと言うてました。なんでそこまで言われなあかんのやろうって。総連組織の仕事を私らここまでがんばってるやないかと。長男を出せというのは、二人ではまだ足らないのかと。結局、問答無用みたいな感じで言われて、もうオモニは、準備が間に合わへんと。オッパに何も持たせず船に連れていかれて乗せられるようなことは出来ないので、泣きながらオッパが持っていく布団縫ってたんです。

「祖国訪問」を終えて日本に帰る時。ウオンサン港を離れた船のデッキから、港で見送る息子たちに手を振るヤン監督のお母さん。2001年。

 

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※8/4から封切りされたヤン・ヨンヒ監督作品「かぞくのくに」の上映情報です。
http://kazokunokuni.com/theaters/index.php

「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン・ヨンヒ監督インタビュー 一覧

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
映画監督。64年11月11日大阪市生まれ。在日コリアン2世。済州島出身の父は大阪の朝鮮総連幹部を務めた。朝鮮大学校を卒業後、大阪朝鮮高校の教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーに。95年から映像作家として「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などを制作、NHKなどに発表。97年から渡米、6年間NYで過ごす。ニュースクール大学大学院メディア学科にて修士号取得。日本に住む両親と北朝鮮に渡った兄の家族を追ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(05年)、「愛しのソナ」(09年)を監督。著書に『ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや』(アートン新社・06年)、『北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ』(聴き手 佐高信・七つ森書館・09年)、『兄―かぞくのくに』(小学館・2012年)。
「ディア・ピョンヤン」で、山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波部門特別賞、ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭審査員特別賞、第8回スペイン・バルセロナ アジア映画祭最優秀デジタル映画賞(D-CINEMAAWARD)を受賞。
「かぞくのくに」で、ベルリン国際映画祭アートシアター連盟賞、パリ映画祭人気ブロガー推薦作品賞を受賞、他現在も各国の映画祭から招待が続いている。

 

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