2014年10月、大阪・泉南地域のアスベスト被害者やその家族らが国を訴えた「泉南アスベスト国賠訴訟」は、最高裁で国の責任が断罪され終結した。日本 における「アスベスト被害の原点」とされるこの訴訟を改めて振り返るとともに、残された問題について考察する。第二回目は、戦前のアスベスト被害調査を国 が隠ぺいしていた疑惑について報告する。(井部正之)

2009年6月1日の「公害被害者総行動」の一環として行なわれたデモに参加する大阪・泉南地域のアスベスト被害者らと弁護団

2009年6月1日の「公害被害者総行動」の一環として行なわれたデモに参加する大阪・泉南地域のアスベスト被害者らと弁護団

 

◆ 戦前に国は石綿肺被害を認識

本連載第1回で紹介したように、「大阪・泉南アスベスト国賠訴訟」において、国側はこの間の対応に不備はなかったと主張した。

実はこうした国の主張は従来からのものだ。

2005年8月と9月、アスベスト問題における過去の行政対応について検証した政府は、各省庁からの報告を基に、「行政の不作為があったということはできない」と表明した。

その上で、「関係省庁間の連携が必ずしも十分でなかった」との"反省"を示すのみだ。

原告側は国の主張を真っ向から否定している。アスベスト紡織工場の元労働者や周辺住民である原告は高濃度のアスベスト暴露で起こる石綿肺などを発症しているのだが、泉南地域における石綿肺の多発は戦前に国が自ら調査し、その被害実態を詳細に把握していたからだ。

1940年3月に出された調査報告書によれば、旧内務省保険院社会保険局は大阪・泉南地域を中心に19カ所のアスベスト工場の労働者1024人を対象に、1937~40年に健康障害の状況を調べている。

その結果、石綿肺の発症率は12%に及んでいた。異常に高い数字である。勤続年数別にみると、3年以下の1.9%に対し、3~5年で20.8%、 5~10年で25.5%と、長く勤めるほど発症率が上昇している。さらに15~20年では83.3%に及び、20年以上に至っては100%という驚くべき 被害状況だった。

報告書は大阪付近に2000人以上のアスベスト紡織に携わる労働者がおり、労働環境が劣悪であるとして、予防と治療法の確立が必要と結論付けている。

報告書を読んでいて驚かされるのは、石綿肺の診断と除じん設備についての考察がかなり具体的なことだ。工場内の粉じん濃度測定も実施されており、当時ですら異常な粉じん量だった。そのため、ガーゼマスクなどの着用義務づけや除じん設備の改善を求めている。

この記述からは逆に除じん設備の改善が技術的に可能だったこともうかがえる。

アスベストによる健康被害の発生で最初に確認されたのが石綿肺である。欧米でアスベスト産業が興ったのは1870年代とされる。

それから約30年後の1906年、英国やフランスでアスベスト紡織工場の死亡例が報告された。以後、イタリア、ドイツ、アメリカでも被害が見つかり、1930年代には医学的にアスベストと石綿肺の関係は明らかになっていたという。

英国政府は1928年に工場医療監督官エドワード・ミアウェザーと技術監督官チャールズ・プライスにアスベスト紡織工場の調査を命じた。1930年 には石綿肺の発症率は4分の1以上という恐るべき被害状況と共に、労働環境の改善方法についても詳細に示した報告が公表される。これに基づき、英国政府は 1931年に「アスベスト産業規則」を制定し、排気装置の設置や粉じん抑制を義務づけている。
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