エジプト・カイロのタハリール広場を埋めた数十万の群衆の映像をテレビで眺めながら、なぜエジプトの革命は成功し、イランの抗議デモは実を結ぶことなく立ち消えてしまったのかを、ずっと考えていた。

抗議者の数も、インフレや失業率のひどさも負けてはいない。両者の違いは恐らく、デモに参加した一人一人の目的がどこまで明確に一致していたかではないだろうか。エジプト市民は、是が非でもムバラク大統領を権力の座から引きずりおろす。そのためには徹底抗戦で臨むと多くが考えていたのではないか。

一方イランのデモは、選挙のやり直しを求めることから始まり、一部は民主化、自由化を、また一部は体制打倒に先鋭化したが、デモを主導する改革派の指導者たちは、最後まで体制の枠内での平和的な抗議運動という姿勢を崩すことがなかった。

エジプトの革命が成功したもう別の大きな理由に、体制派市民の動きがほとんどなかったことがあげられる。親大統領派がデモ隊に攻撃をしかけたというニュースもあったが、数日でその姿は消えた。ムバラク大統領は30年もの独裁の中で、自分に忠誠を尽くす市民をその程度しか養ってこなかったのかと呆れるほどだ。

それに引き換えイランでは、最高指導者が一声かければ、イラン中から数百万人の体制支持派がテヘランへ馳せ参じ、デモ隊を包囲するだろう。

さらに、エジプトでは軍が中立を守っていたのに対し、イランでは、体制に忠誠を誓う13万人の革命防衛隊がいる。そうした中で、イランの体制指導部が、アラブ諸国の国王や独裁者のように、改革派市民の要求の一部ですら飲むとは思えない。

アラブの政変がイランに波及することはないとした私の予測は間違っていたが、もしこの動きがエジプト革命に続く大きなうねりの一つとなっていたならば、おびただしい犠牲と、修復の見込みのない国家、国民の分裂を招いていたことだろう。

その一方で、70名近いとされるデモの犠牲者や、数すら明らかでない多くの行方不明の若者たちの存在、また有罪判決を受けたり、海外へ逃亡したりした無数の人々の人生の転落は、この国の歴史に何を刻み、どういう意味を残したことになるのだろうか。その答えがどれ一つ見つからないまま、町は再び平穏を取り戻そうとしていた。

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