12時間前に北朝鮮から越境して来た老人。「自分の村ではバタバタと人が死んだ」と証言。1997年7月中国延辺地区で撮影石丸次郎

◆越境者・難民が語る飢餓の現実

私が97年から99年の間にインタビューした北朝鮮越境者・難民の証言を記しておこう。北朝鮮の飢餓がどれほど凄まじいもので、まさに大飢鐘の様相を呈していたかが窺えると思う。

インタビューした越境者・難民は、別の日時・場所から、別のルートを通って北朝鮮から逃れてきた人々である。個別に直接会って話を聞いた。質問の内容は多岐にわたったが、共通の質問を投げかけることによって、特別な事例を排し、飢餓発生の「メカニズム」、いわば飢餓を生み出している北朝鮮の社会構造をあぶり出すことを心がけた。

聞き取り調査のサンプルとしては数が充分ではないこと。出身地が咸鏡北道に片寄っているきらいがあること。いわゆる特権階層といえる人がほとんどいなかったことなどから、彼らの証言を重ね合わせて検証できることには限界があるのは承知している。しかし、韓国のバイアスのかからない立場で気がねなく話してくれたその証言は、ベールに包まれた北朝鮮の内情を知るのに貴重な示唆を与えてくれるはずだ。

「住んでいた清津 (チョンジン) 市が未供給(食糧配給の停止)になったのは93~94年ごろからでした。その後は各企業所(職場)で『自力更生でやれ』ということになり、工場の機械をばらして屑鉄、屑銅にして中国に売り払ったり、工員総出で山にマツタケ採りに入ったりして凌いでいました。妻も家財道具を闇市場で売って商売をしていました。しかし、95~96年ごろから飢え死にする人が出はじめると、企業所の同僚や近所の人たちがどんどん姿を消していきました。

家にじっとしていたのでは飢え死にするしかないから、企業所も放棄して食糧調達に出るのです。それを北朝鮮では『行方(ヘンバン)』に出かけるといいます。いまや旅行証明書もなしに人民が大移動するようになりました。統制できなくなったのです。

しかし、寝るところもありませんから、駅の待合室や闇市場に人々が集まり、そこで大勢の人が行き倒れのようにして死んでいきます。真っ先に死んでいったのは子供と年寄りでした。私たち一家も行き倒れになるのは時間の問題だ、せめて子供だけでも生き長らえさせねば、そう決心して中国にいる親戚を頼って豆満江を越えたのです」(咸鏡北道清津市出身、建設労働者、40代の男性Aさん)

「清津では、人口の10パーセントがすでに死んだと思う。家族には、俺は死んだものと思ってくれと言って出てきた。衰弱した老妻を残してきたが、もう生きてはいないだろう」(咸鏡北道清津市近郊出身、鉱山労働者60代の男性)

「97年の初めのことです。食糧を手に入れるために黄海道に行った帰り、ターミナル駅の沙里院駅で途中下車したのですが、駅の待合室は列車を待つ人や夜露を凌ぐ人で足の踏み場もないほどで、それは悲惨な光景でした。行き倒れた人の死体を何体も、安全員(警官)が罪人に命じて引きずり出させていました。手足が凍傷でパンパンに腫れあがって歩けない子供が、四つん這いになって『オンマー、オンマー(母さん)』と泣きながら母親を探していた」(平安南道出身、30代の男性)

「配給なんてなくなって久しい。みな家財道具を売り、最後は家も売って闇市場で食糧に替えます。けれど、食べ物が高いからいくらにもならないんです。服一着売ったってコメ1キロにもなりません。子供がたくさん死にました。私のいた郡では人口の30パーセントが死んだと思う」(咸鏡北道の郡部出身、30代の女性のBさん)

「私の住んでいた村は人口約1500人でしたが、97年に入って1日平均2人ずつ死んでいったと思います。多い日には10人、15人と死んでいった」(咸鏡北道明川郡出身の炭鉱労働者、60代の男性)

「あまりにもたくさん死人が出るので、職場でもお金が間に合わなくて棺おけもなく、筵(むしろ)にくるんで埋葬するようになりました」(江原道元山市出身、40代の男性Cさん)
(続く)

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