◆衝撃作「ディア・ピョンヤン」

その後、いくつかテレビ番組を制作した後、ヤンさんはニューヨークに渡って本格的に映像を学び始めた。並行して、帰国事業で70年代初盤に北朝鮮に渡った3人の兄家族のもとに通い、作品化を模索しながら両親のいる大阪と北朝鮮で撮影続ける。10年の時を経て完成したのが、「ディア・ピョンヤン」(2005年)と「愛しきソナ」(2009年)だ。

この2作品は、北朝鮮取材経験のある報道関係者の間に、「よく撮ったものだ」「公開できたのがすごい」と、ちょっとした衝撃を与えることになった。

「祖国訪問」を終えて日本に帰る船のデッキから、元山港で見送る息子たちに手を振るヤンさんの母。「ディア・ピョンヤン」より。

私は90年代に平壌と地方都市に計3度、北朝鮮を訪れる機会があった。事前に多くの訪朝経験者から聞いていた通り、寝ている時以外のほとんどの時間に「案内員」という名の監視が付いた。街を自由に歩き回ることもできないし、住民たちと腹を割って話をすることもできない。外部の人間には絶対に越えることができない「高い壁」があることを実感することになった。

「ディア・ピョンヤン」には、いわゆる「衝撃映像」はない。アパート街の裏通りの様子は出てくるが、兄家族たちの飾らない素の姿が「主観撮影」の手法で、生き生きと撮られているだけだ。それは当局の立ち会いや監視が緩い条件だからできたわけで、外国人には絶対に踏み込めない「高い壁」の向こう側の世界であった。

だが、この作品が公開されると大問題になった。総連はヤンさんを北朝鮮入国禁止にしたのだ。ヤンさんは北朝鮮政府に反対するために作ったわけではないし、金正日政権(当時)が隠したい民衆の窮乏の実態が映り込んでいたわけでもない。

ただ家族に密着して撮った映像すら目の敵のようにして規制される。政権と総連の「検閲基準」が奇しくも明らかになったわけだ。北朝鮮が民主化と開放に進まない限り、「ディア・ピョンヤン」のような作品は、今後生まれることはないのではないか。

平壌での撮影を作品化する際、兄一家に悪い影響が出たらどうするのか。周囲も心配し、ヤンさんも苦悩したはずである。当時を振り返ってヤンさんはこのように言う。

「『ディア・ピョンヤン』を作った時は、家族に迷惑かからないようにするにはどうしたらいいかと思いながら構成を考えたり、言葉を選んでナレーション作ったりしましたが、でも正直な思いも出したい。実際には、いくら気を付けても家族の安全保証に『絶対』はないじゃないですか。私が正恩様万々歳の映画でも作らない限りは払拭できないと思うんです。でも、作りたいというか、なんか吐き出したいというか、そっちの方が勝ってしまいました」

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朝鮮総連の幹部だった父とヤンさん。「ディア・ピョンヤン」より。

◆朝鮮総連の二つの顔

朝鮮総連には二つの顔がある。一つは、在日コリアンの互助組織、権利擁護組織という顔だ。日本で社会的、制度的に差別され、排除されてきた同胞の人権や暮らしのために助け合い、闘ってきた。金融機関や朝鮮学校などの設立と運営は、もともとこのような目的で営まれてきたものだ。

もう一つは、朝鮮労働党の日本支部という顔だ。労働党は階級なき社会を建設するための革命党として立ち上がったが、60年代後半には金日成への(後には金正日、金正恩と三代続く一族への)絶対忠誠、絶対服従を強要するシステムを、いわば維持管理するのが役割になってしまった。それは日本支部たる総連組織にも貫かれて今日に至っている。

総連の承認なく在日が祖国で撮影した映像を作品化するなどもってのほかだ……総連がヤンさんにペナルティを科そうとした理由は、こういうことだったのではないか。

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