実際、アーシュラーはシーア派だけのものだ。ホセインが立ち向かったカリフ政権を正当と見なすスンニー派社会では、当然のことながらアーシュラーは敵の敗北以上の何ものでもなく、このモハッラム月も、イスラム暦の新年として祝われこそすれ、決して喪に服す月ではない。

「とはいえね、アーシュラーも俺が子供のときのと比べたら、随分と様変わりしたよ。俺がガキの頃のアーシュラーは、哀悼の気持ち一色で、純粋なものだった。今の若いやつらときたら、それ以外のことで頭がいっぱいだ」

アーシュラーは、女の子たちがいい男を品定めする場と化している、と運転手は言いたいのだった。鎖を自分の身体に打ちつける姿は勇壮で、ダステの行進の周りには、着飾った女の子たちのグループが、あれはどうか、これはどうかと男たちを指差してはキャアキャア騒いでダステの後を付いてゆく。

男の子たちもそれを意識し、アーシュラーの前々日(前日も休日で床屋が閉まるため)には、床屋はどこも若い男たちでいっぱいになるほどだ。
「昔と比べ、立派なテント小屋やアラーマトばかりが増えて、肝心の哀悼の精神は薄れてきてやがる」

「そんなことないですよ。さっきうちの近所でやってたダステでは、みんな泣いてましたよ」
「そういうやつもいるけど、そうじゃないやつもいっぱいいるんだ」
それは昔のアーシュラーでも同じことだろう。以前、結構年配の方が、奥さんと初めて知り合ったのはアーシュラーだったと言っていた。

「時代は少しずつ変わってゆくものですから、仕方のない部分もありますよ。それよりも、1300年もアーシュラーが続いてきたことの方が重要じゃないですか」
私がそう言うと、運転手は納得したようだった。

ホセインがわずか72人の教友とともに大軍に挑んだカルバラの蜂起は、圧制との戦いという、シーア派のメンタリティーのかなり重要な部分を形成し、後世に影響を与えた。その精神は、恐らく今後も、シーア派が少数派である限り、イランに脈々と受け継がれてゆくことだろう。

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