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【遺体洗浄室・清潔に保たれてはいるが、暖かみはない】(撮影:筆者/テヘラン)

テヘランつぶやき日記
大村一朗のテヘランつぶやき日記~テヘラン共同墓地ベヘシュト・ザハラーを訪ねて(2)  2009/05/20

◆4分の1のリアリティー
洗浄室の男たちの仕事は、少々荒っぽいものだった。シャワーも薬液も顔面から浴びせかけるし、決して邪険な扱いではないものの、遺族の見ている前でもう少し丁寧に出来ないものかと思ってしまう。そもそもこの作業を5分で終わらせることに無理がある。

だが、日に100体以上の遺体がここに運ばれてくる以上、5分で一体を終わらせなければ日が暮れてしまう。イスラムでは、埋葬は日没前に終わらせなければならない。それは彼らの腕にかかっているのである。
次々に運び込まれ、運び去られてゆく遺体を、私は飽きることなく眺め続けた。

病院で長い闘病の末に亡くなった遺体には、それと分かるタグが付いている。一方、事故や、自宅で亡くなった場合には、必ず検死が行なわれ、そうした遺体には、喉元から下腹部付近にかけて、縦一文字の派手な縫合跡が見られる。

見学サロンでは、自分の親族の遺体が運ばれてくるまで、他人の遺体洗浄を興味深げに見学する人が多い。ナイロンから遺体が顔を出すたびに、ギャラリーからのため息や舌打ちが響く。それが若者であれば、「かわいそうに」、「事故かな」、「病気だろ」とささやきが漏れる。

実際、20代と思われる若者の遺体が多いのに驚かされる。建設現場で鉄筋の下敷きになって亡くなったという青年の洗浄では、遺族や友人の泣き叫ぶ声がサロンに響いた。小児癌だろうか、骨と皮だけになった10歳くらいの男の子の遺体には、直視できず、首を振りながら立ち去る人も少なくなかった。縫合跡のある、20代の若者の洗浄では、ガラス窓に頭を打ちつけ、「なぜ先に行く」とつぶやきながら、その様子を見つめる父親の姿があった。

「自殺だってよ。薬で」
周りにいる誰かがささやく。
「あの父親、麻薬中毒だな。しゃべり方で分かる」
イスラムでは、自殺は、完全に楽園への扉が閉ざされる、償いようのない罪とされる。それを決断するまで、この青年はどれほどの精神的ストレスに苦しんだのだろう。見渡せば、この父親以外、彼の洗浄を見守る人はいないようだった。

遺体洗浄の光景は、たとえ無残な手術跡があろうと、事故による損壊があろうと、目を背けたくなるようなものでは決してなかった。それは恐らく、彼らが亡くなって一両日中であるため、遺体がまだ新しく、その表情に至っては、生きた人間の安らかな寝顔となんら変わりがなかったからだろう。顔にシャワーをかけられた瞬間、驚いて目を覚ますのではないかと思えるほど、人間らしさを残していた。

不謹慎を覚悟で言えば、私は、次々と運ばれてくる遺体を見ているのが、とても面白かった。死には、それぞれ理由があり、その人の人生が滲む。死体という、最も無防備な姿を眺めるのは、その人の人生を覗き見ているような感じさえした。

裏を返せば、大勢に赤の他人に自分の遺体の洗浄を見学されるのは、随分なプライバシーの侵害である。洗浄中、死者の尊厳をかろうじて守っているのは、下腹部に掛けられた一枚の布切れだけだ。しかしその布切れも、使い回しである。
スィーロスさんが横から私につぶやく。

「ここに来ると、人生について考えてしまうよ。つまらないことで人といがみ合っているのが、本当に馬鹿らしく思えてくる。だって、人生なんていずれ、ほら、こんなふうに終わるんだから」
テヘラン市民のスィーロスさんにとって、これら4つの浴槽は、いずれ必ずそのうちの一つに自分も横たわり、同じようにシャワーと薬液を頭から掛けられる場所だ。私とは、抱くリアリティーの質が違うのは当然だった。(つづく)