アパートの階下にいつも売りに来るハーブ売りの屋台。イランの食卓にハーブは欠かせない。5、6種類は買って、自分ごのみのサラダにしたり、煮込みにしたり(テヘラン・撮影筆者)


◆長い旅の終わり

2012年の年明けとともに、勤め先のイラン国営放送で退社手続きが始まった。総務課の職員がくれた書類の束は、国営放送の広大な敷地に散らばる様々な部署の責任者からもらうべきサインとスタンプに関するものだった。簡単に言えば、退職する前に各部署で金銭や物品を借りたままになっていないか、それを証明するサインとスタンプを各部署の責任者からもらわなければならないということだ。

「時間がかかるから、早めに取り掛からないと退社日に間に合わなくなるぞ」

職員の忠告の意味はすぐに分かった。通常業務の合間にこの作業をこなすのはなかなか大変だった。なかには複数の責任者からサインをもらわなければならない部署もあり、サインをもらう順序も決まっていた。歩いて片道15分もかかる社会保険の部署では、サインが必要な責任者は3人いたが、何度訪ねても最初の責任者が不在にしていて出直さなければならなかった。もちろん、私はどこの部署からも金品を借りたことはない。図書室など、その存在すら知らなかったのに、未返却の本がないことを証明するサインをもらいに行かねばならないのだ。この不毛なスタンプラリーは、通常業務を圧迫しながら、退職日ぎりぎりまで続いた。

家に帰れば、荷造りも急がなくてはならなかった。2Kの狭いアパートだが、家族で4年間暮らしただけの大小の家財道具があった。日本での生活に備えて、お金になりそうな家具や電化製品は中古屋に売り払い、そうでないものは友人知人に引き取ってもらった。

本当は、家財の処分などより、良くしてくれた近所の人たちに挨拶に回らなければならなかったが、私はそのタイミングを一日また一日と後回しにしていた。ひとたび離れれば、そうやすやすと来られる国ではない。帰国の挨拶は、今生の別れを告げにゆくようなもの。常日頃から私たち家族を温かく見守り、通りかかるたびに声を掛け合い、この国での日常に安心と潤いを与えてくれた商店街の雑貨屋、八百屋、ケーキ屋、ケバブ屋、薬局、その他もろもろのお店の店員さんたち。かれらにどうしても別れを告げに行くことが出来なかった私は、つらいことを先延ばしにして、最後の日に挨拶に回ろうと決めた。そしてとうとうイランを発つ2012年3月15日を迎えてしまった。

すっかり空っぽになった部屋を、もうすぐ5歳になる息子が物珍しそうに走り回る。彼は帰国後すぐに幼稚園に入り、楽しいことをたくさん経験することだろう。イランで見知らぬ多くの人に抱き上げられ、数えきれないほどキスをされたこの4年間の記憶は、遅かれ早かれ消えてしまうとしても、彼の心に何かしらの種をまいてくれたと信じたい。

閉まらないトランクに悪戦苦闘している妻は、イランに来たときと同じように、日本での新しい生活に胸躍らせている。もうイランに来ることはないかもしれない、もうこの人たちとは二度と会えないかもしれない、そんな根拠のない不安は、彼女にとってまったく意味がないかのようだ。

一方私はまったく穏やかな気持ちになれなかった。帰国後の予定など何もない。それでも決めたこの帰国は、まるでひとすじの光さえ見えない新たな旅の始まりのようだった。

ふと、8年前、薄暗いメフラバード空港にたったひとり降り立った日のことを思い出す。恐れおののきながら、夜明けとともに輪郭を持ち始めた外の景色に目を凝らし、勇を鼓して薄暗い街に繰り出したときのことを。右も左も分からず、バス一つ見つけて乗ることすら難しかったあの頃のことを。私は希望にあふれた33才だった。イランを皮切りにジャーナリストとして身を立てようという夢を抱いて、何の計画もなくこの国に乗り込んできた。そして、目の前に目標が現れるたび、そこに向かって歩いた。それが必ず次の何かに繋がると信じて。ずっと続いてきたそんな有機的な繋がりを、私はいま、自ら断ち切ろうとしている。

部屋が片付き、階下のお弁当屋さん、近所のケバブ屋さんなどに足を運び、懇意にしてくれた店員さんたちに挨拶をする。毎日のように買い物をした目の前の雑貨屋で、ケバブ屋の主人のアリレザーさんを見つけると、彼はいつものように私の息子を抱き上げ、店の板チョコを1枚握らせた。

「メルスィー(ありがとう)って言わなきゃ」

私が促しても、息子はいつものように恥ずかしがって、にこにこするだけだ。そんなことは気にもとめず、アリレザーさんは紙切れに自分の携帯番号を書いて私によこし、言う。

「イチロー、電話をかけてこい。『イチローだよ、元気だよ』それだけでいいから」

その足で、アパートの鍵を、近所で電気店を営む大家さんに返しに行った。毎月家賃を払いに行くたびにお茶を出してくれた大家さんは、私の息子に「記念だよ」と小さなオルゴールをプレゼントしてくれた。

そんな別れの後だからかもしれない。毎日のように通ったケーキ屋、行くたびに若い従業員たちが息子を抱き上げ、ケーキやミニシュークリームをその口に放り込んでくれた、我が家にとってはこの町の、いやこの国のオアシスのような存在だったその店に、私はどうしても足を向けることができなかった。なんという往生際の悪さだろう。アパートの前では、もう妻の友人一家が車で迎えに来てくれていた。

車に乗り込むと、見慣れた町の喧騒が背後に遠ざかってゆく。家族で数え切れないほど往復したこの商店街を、もうあのアパートに向かって辿ることはない。

「イランっていうより、この街が私たちに最高に合ってたんだよ。日本にもきっと、そんな街はあるよ」と妻がつぶやく。

そのときふと、近所のお店の一つ一つとの別れがなぜ身を切るようにつらかったのか分かったような気がした。ケーキ屋にさよならを言えなかったのも、それがこの街で過ごした家族のかけがえのない時間に最後の別れを告げることに他ならなかったからなのだ。

だったら尚のこと、失うものより、与えられたものの大きさを思うべきではなかったか。それほど幸福な時間を私たち家族に与えてくれたこの街と、この国に対して。さよならではなく、ありがとうを言うためなら、きっとケーキ屋にも足を運ぶことが出来たのではないのか。

深夜、私たちを乗せた飛行機は一路ドバイに向けて飛び立った。真っ暗な夜空の向こうには星一つ見えず、盛りをすぎたテヘランの夜景が静かに私たちを見送っていた。(了)

 

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