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【護衛艦「さわぎり」の母港、海上自衛隊佐世保基地をのぞむ】

【護衛艦「さわぎり」の母港、海上自衛隊佐世保基地をのぞむ】

第1章
自殺した自衛官とその両親が訴えるもの
いじめと自殺

鈴木秋雄は小さい頃、動物や植物が大好きで、中学時代は水泳とバレーボールが得意だった。
転校した中学校では一時期、上級生にいじめられ、殴られてけがをしたこともあるが、ひるまずに向かっていったという。
高校は宮崎市にある県立の進学校に入り、水泳とボクシングにも励んだ。

敬愛する従兄が防衛大学校生だったこともあり、少年の頃から自衛隊への憧れを抱いていた。
高校2年生のとき、「社会の役に立つ男らしい仕事をしたい」との思いから、卒業後の進路を海上自衛隊一般曹候補学生へと定めた。
海曹候補学生は、一般の任期制自衛官よりも早く、階級が海士から海曹に上がる特別コースである。
それだけに入隊試験の競争率は十数倍という高さだった。

秋雄は受験勉強に打ち込んで合格し、1997年4月、海上自衛隊佐世保教育隊に入隊した。
2年間の厳しい訓練と学習と乗艦実習を終え、3等海曹にも昇任し、1999年3月、「さわぎり」の機関科に配属された。
このように自衛官の道に希望を持って進んできた若者が、なぜ21歳の誕生日に自ら命を絶つことになったのであろうか。
妻と幼い子を後に残して。両親にも先立って。

「息子はその年の9月頃から、機関科の2人の班長からいじめられると悩みを漏らしていました。
まだ教わっていない作業を、同僚や後輩のいる前で命じられて、できないと、『お前はバカだ』『3曹の資格はない』『艦にはお前なんか要らない』などと罵られると言っては落ち込んでいました」

「また、宮崎県名産の高価な焼酎を暗に要求され、『お前はできが悪いから俺の立場がない。俺の顔に泥を塗るな』とも言われたそうです。息子は『僕はいま蛇ににらまれた蛙だよ』とまで口にしていました。私は電話で話をするたびに息子を励ましていましたが、心配でなりませんでした」と、佳子は語る。
1999年11月2日、最後の航海に出る前夜、「明日から24時間やられる。24時間だからね......」と、か細く電話口から漏れてきたのが、結局、我が子の声を聞いた最後になった。
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