換言すれば、資源統制運用の要は有事に際し国の利用し得べき一切の資源を挙げて之を統一的に按配し、国軍の需要を充足すると共に、国民の生活を確保し、以て最大限度に国力を発揮せしむるに存するのである」(前掲書 107頁)

この定義はあくまでも、計画を立て、統制し、命令を下す側の視点からなされたものだ。
主体性は「統制運用」する側にあり、利用される対象として客体化し、手段化されている。
統制の力の作用は上から下へと貫徹し、その力によって「人的資源」は有事すなわち戦争のために「最大能率」の発揮を強いられる。消耗品として扱われる。

ここには、「人的資源」とされる側が実はそれぞれ人生のある生身の人間であることへの想像はいっさい見られない。
上官からの執拗ないじめにより精神的に追いつめられ自殺した海上自衛官の母親、鈴木佳子(仮名)は、政治家が口にした「人的資源」という言葉に強い違和感を覚え、それが国家総動員法の第1条、

「国家総動員トハ戦時ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」に出てくることを知った。
「人的資源」という言葉はこのように、国家総動員法制定よりも11年前に、すでに国家中枢の官僚機構のなかで使われていた。すなわち、国家総動員法へのレールは資源局の創設とともに敷かれてゆくのである。 ~つづく~
(文中敬称略)

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