◆シーア派最大の祭祀アーシュラーに度肝を抜かれる(下)

150人ほどのダステが、ヘイヤトの前で今日最後の行進を終えようとしていた。マイクの青年の絶叫とドラムのリズムに合わせて、鎖を我が身に打ち付ける男たち。殉教したホサインの痛みをそうして自らの身体に刻むのだ。それが終わると皆ぞろぞろとヘイヤトの中に入っていく。真っ暗な屋内は彼らの汗の匂いでむせ返っていた。再びマイクを握った青年がイマーム・ホサインの名を絶叫し始める。

アーシュラーで繰り出す、剣をかたどったアラーマトは、そのダステのシンボルである。力自慢の若者が交代で担ぎ手を担う。(撮影筆者)

アーシュラーで繰り出す、剣をかたどったアラーマトは、そのダステのシンボルである。力自慢の若者が交代で担ぎ手を担う。(撮影筆者)

 

「ホサイン!ホサイン!ホサイン!ホサイン!ホサイン!ホサイン!ホサイン」
鎖ではなく、今度はみな両手で自分の胸を激しくたたく。私はすっかり気圧されながらも、次第に、この濃密な空間に自分一人だけが傍観者でいる不自然さに耐えられなくなってきた。おずおずと自分の胸をたたき、そして、つぶやいてみる。
「ホサイン、ホサイン......」

その瞬間、彼らのリズムがスッと体内にすべりこんできた。私の鼓動が熱狂のリズムと共鳴し始めたのだ。そして急にこんなふうに思えてきた。これもありだな、と。日本人だって神輿をかついで馬鹿になる。

ワールドカップで馬鹿になる。熱狂そのものはどこにだってある。それがイマーム・ホサインというシーア派のルーツの殉教を悼むことであっても別によいではないか。自分の身体を連打しながらボロボロと涙を流す若者たち。それもありなのだ。大事なものは人それぞれなのだから。

午前4時、14時間燃え続けたガスバーナーの火が消された。鍋の中の固形物は完全に姿を消し、粘り気のある白濁したスープが完成した。夜が明けると、昼間の客人たちが小鍋を持ってスープをもらいにきた。

この濃厚な白濁スープは「ハリム」という。イラン人はこれに、塩ではなく、なぜか砂糖とシナモンをかけて食べる。表現しようのない味だが、徹夜明けの疲れた身体に不思議と染み渡る。

アーシュラー当日。西暦680年のこの日、ホサインは現在のイラクの町カルバラ近郊の砂漠で敵の刃に斃れた。このカルバラ戦役が、のちにイスラムをシーア派とスンニー派に隔てる決定的な分岐点となる。西暦632年に預言者ムハンマドがこの世を去ってから、イスラム帝国の統治はカリフ(預言者の代理人)に委任されていたが、カリフ職は本来、前カリフによって推挙され、ムハンマドの教友たちによる協議を経て選出されるものだった。

ところが第4代目カリフ、アリーが暗殺されると、ウマイヤ家の当主ムアーウイヤが自らカリフを宣言し、さらに長子ヤズィードにその職を譲ってしまう。この世襲に反対し、預言者ムハンマドの血統を重んじる人々が、預言者の娘婿アリーの次男ホサインを担ぎ上げたのがシーア派の始まりである。ホサインはわずか73人でウマイヤ軍数千騎に戦いを挑み、西暦680年のこの日の正午ごろ、カルバラで悲劇の最期をとげるのである。

その時刻に合わせて祭祀は最後の熱狂を迎える。ヘイヤトの前では、ウマイヤ軍の大将ヤズィードがホサインの陣地を襲うという設定で、ヤズィードに扮する若者がテントに火を放ち、ホサイン殉教の再現劇を催す。それが終わると、最後にヘイヤトでふるまい飯が配られ、10日近く続いた一連のアーシュラーの行事はほぼ終了した。

その日の夕刻には、街路に残された祭りの残骸を片付ける清掃局員の姿や、大鍋を洗う家々を目にし、ハレの日のあとの白々とした空気が早くも街に漂い始めていた。
殉教を悼む宗教儀式とはいえ、イランの人々が国をあげて騒ぎ、語り、食べ、共同体のきずなを確かめ合う、それは明らかに「祭り」であった。そんな「祭り」を持つかれらを少しうらやましく思った。

その日の晩、カルバラで爆弾テロが起こったというニュース速報を目にし、私たちは言葉を失った。イラクでフセイン政権が倒れ、25年ぶりに盛大なアーシュラーが催されたシーア派の聖地カルバラで、何者かのテロにより150人を越す命が失われた。私が目にした今日の日と同じように、近隣同士でハレの日を過ごした人たちが、今、むごたらしい悪夢のさなかにいる。シーア派に対する迫害は、ホサイン殉教から1324年の月日が過ぎた今も、連綿と続いているのだ。

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