証言する新川初子さん(87)
証言する新川初子さん(87)

◆撤退、壕内の爆音
麻酔もなく、緊急の手術が行なわれた。
「火薬でケガをしているから、周囲も全部取るんですよ。息を止めていたら、軍医が『おっ、女学生のほうが強いなー』って。でも激痛で弱音を吐くに吐けないんですよ」
塗布されると屈強な兵隊たちも泣き叫ぶほどの消毒薬のヨードチンキによる焼け付く痛みも体験した。

壕の一番奥。狭い隙間に身体を折って横たわる日々が10日ほど続いたろうか。濠の空気に異変を感じた。そのとき、同級生の一人が突然顔をのぞかせた。「はっちゃん、ここに置いておくよ。すぐ連れにくるからね」。彼女は新川さんの頭の上のほうに何かをそっと置いて、また戻っていった。

まもなくだ。二段ベッドからバタンバタンと何かが倒れる音。手榴弾が爆発する音。「連れていってください!」という悲痛な叫び――。首里にあった第32軍の総司令部陥落が目前。軍は本土決戦を先延ばしさせるため南部撤退を選択、病院は閉鎖されることになったのだ。この日は奇しくも、新川さん19歳の誕生日だった。

「なんとか歩ける『独歩患者』は連れて行き、歩けない兵隊には青酸カリを入れた缶詰や手榴弾が配られました。残される者は何も聞かされていませんでした」
それは新川さんも同じだった。ただならぬ雰囲気の壕の奥にいて、突然、土くれに家族の顔が浮かび、涙がこぼれた。
「早く行きましょ」「初子姉さん行きましょ!」
そのとき、突然下級生2人が飛び込んできた。

「どこにいくの?」
「もうなんでもいいから、早くしないと大変なんです!早く早く!」
壕の外にはすぐそこまで米軍が迫っていた。砲弾が炸裂する中、下級生に支えられ、たどりついた先には担架が三つ。うち二つには重傷の学徒がそれぞれ寝かされ、一つだけ空いていた。
「実は学校の教師が乗るはずでした。連れ出そうとしたけれど、脳症でどうしようもない。敵の砲弾も激しくなる。そこで下級生たちは急きょ『仲村(新川さんの旧姓)を連れて来い』と言われたそうです。でなかったら私は壕に残っていたと思います」

そもそも枕元に同級生が置いたものは何だったのか。新川さんは心情を慮り長く聞けずにいたが、戦後同じ学校に勤務し、親しくなって思い切って尋ねてみた。缶詰と米と牛乳。粉薬のように紙に包んだ青酸カリ。
「当時私は、青酸カリが死ぬ薬だということを知りませんでした。あのままいたら、元気になる薬だと思って、のんだかもしれません」
(つづく)

【注:ひめゆり学徒隊】
米軍の沖縄上陸に備えて日本軍が組織した学徒隊の一つ。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成され、傷病兵の看護などにあたった。戦局 が悪化すると日本軍とともに南部に撤退、6月18日には解散命令が出た。引率の教員を含む240人のうち、教員13人、生徒123人の計136人が犠牲 に。このうち100人以上が解散後数日で亡くなった。戦後、総称して「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるように。沖縄戦では、県内の男女学生約2000人が鉄血 勤皇隊や学徒看護隊に動員され、約半数が死亡した。
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