タルビヤテ・モダッレス大学のキャンパス

タルビヤテ・モダッレス大学のキャンパス

 

◆大学院、はじまる
9月も半ばを過ぎた頃、イランの各種学校は3ヶ月余の長い長い夏休みを終え、始業式を迎えた。大学院も例外ではなく、私もまた、30代半ばにして再び手に入れた学生生活をスタートさせた。

ところが新学期初日、単位登録の手続きを行う中で、早くも2つの大きな間違いに気がついた。
私はこのタルビヤテ・モダッレス大学院で、イラン近代史を専攻するつもりだったのだが、蓋を開けてみると、近代史の授業が始まるのは2年目の後期授業であることが判明した。

この大学院の歴史学専攻には、古代イラン史とイラン・イスラム史(つまりイスラム化以降のイラン史)の二つの選択肢があった。入学願書を提出する際、学部事務室で事前に尋ねたところでは、イラン近代史をやりたければ、イラン・イスラム史を選択すればいいとのことだった。

単位登録の段になって分かったのは、イラン・イスラム史専攻では、イランがイスラム化を始める7世紀の歴史から順を追ってやっていかなければならないという。実際には、イスラム軍の侵攻によって滅亡するサーサーン朝ペルシアの歴史からカリキュラムに含まれている。長いイラン・イスラム史の中から近代史だけを選択できるわけではなかったのだ。

もともとイラン近現代史を専攻しようと思ったのは、今のイランをもっとよく理解したいという思いからだった。古代史、そして中世ペルシア史を紐解くことも、もちろん現代イランを理解する手助けにはなるだろう。しかし、自分は高校時代に世界史を選択していない。イランの近現代史については何冊かの本を読んでいたが、それ以外の時代についての歴史的素養はないに等しいのだ。

だが、これ以外にもう一つ明らかになった事実は、私に新学期初日にして早くも学位取得を絶望視させるのに十分なものだった。それは、1年目の必修科目の中に、アラビア語の授業があることだった。イスラム史を学ぶ上で、アラビア語の文献を読みこなすことが必須だからである。当然と言えば当然であるが、もともと中世イスラム史をやるつもりのなかった私には、迷惑この上ない話だった。

ペルシャ語とアラビア語はまったく起源の異なる言語である。イランがイスラム化してゆく過程でアラブ世界の影響を色濃く受けたため、使う文字は同じであり、共通する単語も数多くあるが、同じ単語であっても発音はかなり異なるし、文法に至っては完全に異なる。例えて言うなら、日本語と中国語の関係に似ている。

つまり、私がアラビア語を学ぶということは、日本に留学した外国人に中国語を学ばせるようなものだ。
授業の初日がやってきた。家から大学まで歩いて30分ほどの道のりを、私は落ち着かない気持ちで歩いた。デホダを修了した程度の語学力で果たして大学院の授業についていけるのか。恐らく一回りは年が違うであろうクラスメートとうまくやっていけるのか。今まで余り考えないようにしていた様々な不安が、今日ばかりはと重く心にのしかかる。

学部事務室の掲示板で初授業である「歴史学」の教室を確認すると、意を決してそこへ向かった。6畳間ほどの小さな教室には、すでに男子3人、女子4人のクラスメートがいた。私を入れれば全部で8人。今期、人文学部歴史学研究を選考したのはその8人だけで、かれらと2年間付き合ってゆくことになる。

かれらは皆、地方の大学を優秀な成績で卒業し、テヘランに上京してきたばかりだった。何人かは、テヘラン大学大学院を第一志望にしていたが、選考にもれてこのタルビヤテ・モダッレス大学に来たという。

初日の授業は、簡単な自己紹介とともに、教授から教科書や課題図書を言い渡されて終わった。打ち解ける間もなく解散。私は一人、何となく重い足取りで帰路についた。
それからというもの、週4日の授業に黙々と通った。英語とアラビア語の文献精読の授業以外は、どれも教授のワンマンショーで、学生たちは黙ってその話に耳を傾けているだけだった。教科書もほとんど使わず、教授はその日のテーマについて一人話し続ける。

それを聞きながら学生たちはノートを取る。私には無理な話だった。まったく予備知識のない歴史概論の話を聞き取れるはずもなく、1時間半の間、ただ椅子に座っていることしかできなかった。

その後、私はボイスレコーダーを使うことを思いついた。教授の話を丸々録音し、家で聴きなおしてノートにまとめる。それは気の遠くなるような作業だった。それに、授業中ただ椅子に座っているということに変わりはなかった。

一方、英語の文献精読の授業は、なんとか「参加」することが出来た。ガージャール朝期についての英語文献を読み上げ、それをペルシャ語に直すという授業だが、その日に読むページが事前に指定されるので、予習が可能だった。

もちろん、私が読み上げるペルシャ語訳は訂正されてばかりで、教授からはことあるごとに「お前はそんなペルシャ語でよく大学院に・・・・・・」と言って呆れられた。それでも、参加している実感を持てる唯一の授業だったし、クラスメートたちもそれほど英語が得意ではなかったため、かれらとの差を余り感じずにすんだ。

アラビア語の文献精読の授業は、完全にお手上げだった。単位を取るという目標すら見出せず、出席する意味すらないのだが、無断欠席は許されなかった。

新学期が始まる少し前に、妻が日本に一時帰国したため、アパートには私一人だった。愚痴や弱音を吐ける相手は、庭を訪れる猫ぐらいしかいなかった。時折、下校時に偶然通りで出くわす買い物帰りのKさんが、私の憔悴しきった顔を見ては、よく背中をばちんと叩いて喝を入れてくれた。

もともと安易な選択だったのだ。大学院に進んだのは、学位を取得するためではなく、イランに長く滞在するための方便に過ぎなかった。イランを専門とするジャーナリストになりたい。大学院に籍を置くことで、しばらくは滞在期限を気にする必要はないし、役立つ知識まで得られて一石二鳥ではないか。そういう打算で始めたはずだ。修士号なんてどうでもいい。そう割り切ろうと思い直せば、授業についていけない劣等感やプレシャーから少しだけ解放された。

しかし、明日にはまた授業があり、読まなければならない課題図書が現実として山のように目の前にある。この現実を乗り越えなければ、結局、ビザのためという打算も吹き飛び、下手をすれば1学期で放校処分にもなりかねない。いつもそんな堂々巡りの末、また読みかけの教科書に向き直る。そして煮詰まるとまた庭に出て、絶望感に打ちひしがれながらタバコに火をつけるのだった。

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