びわこ学園。現在、草津市と野洲市の施設などに約230人が暮らし、約140人が通ったり、訪問介護を受けたりしている。(撮影:矢野宏/新聞うずみ火)

びわこ学園。現在、草津市と野洲市の施設などに約230人が暮らし、約140人が通ったり、訪問介護を受けたりしている。(撮影:矢野宏/新聞うずみ火)

◆重い障害のある子どもたちのことを知ってもらい、移転資金も集めようと企画した琵琶湖イベント

びわこ学園は1963年、西日本で初めての重症心身障害児施設として大津市と京都市の境、長等山の麓に設立された。 京都大病院の小児科医だった高谷さんが最初に訪れたのは開園から3年後のこと。

「重い障害のある子がいる部屋に入ると、ベッドに寝たままの子もいるし、畳の部屋で横になっている子もいた。手足をあらぬ方向に向け、硬く突っ張っていた。声はなく、うめき声に似たものがあったのを覚えているわ。異次元の世界が広がっているように感じたなあ」

治療した子が、その後も健やかに過ごしているか気になる。県内の病院を転勤しながらも学園の子たちへの思いが募り、40歳の時に転職を決めた。

びわこ学園は立地条件が悪く、老朽化が進んでいた。
その後、園長に就任した高谷さんは北欧などの施設を視察し、これまでのように大部屋で隔離するのではなく、少人数がグループで暮らす生活に近づけたいと考えた。
だが、資金が足りない。

その中で、重い障害のある子どもたちのことを知ってもらい、移転資金も集めようと企画されたのが「抱きしめてBIWAKO」だ。

1987年11月8日の正午から1分間、琵琶湖一周250キロを25万人が手をつなぐために、参加費1000円を持ってきてもらうという一大イベントだった。

実行委員長に就任したのは、大津市にある養護施設「湘南学園」園長の中沢弘幸さん。同じ福祉とはいえ、養護施設の園長がなぜ、びわこ学園の移転のために「抱きしめてBIWAKO」を提案したのか。

当時、黒田ジャーナルの記者として、中沢さん自身に聞いた「折り鶴」をめぐるエピソードがある。
湘南学園の子どもたちの多くは最も信頼していた親に捨てられ、大人への不信感を募らせている子が少なくなかった。小学5年生の麻美もその一人だった。すねたような目で職員をにらみ、言うことを聞かない。

「自分らだけがこの世の中で一番不幸やいうような顔するな。お前らよりずっと不幸な子がおるんや」と、中沢さんが麻美らを連れて行ったのがびわこ学園だった。

麻美の前には、心身に重い障害のある寝たきりの少女がいた。
「鶴でも折ってやれ」

中沢さんに言われるまま、麻美が折り紙で鶴を折り、少女のてのひらに乗せた時、折り鶴は筋肉の緊張のためにくしゃっと握りつぶされてしまった。
性格の荒い麻美ゆえ、カッとなって手を振り上げるのではないかと中沢さんらがヒヤッとした次の瞬間、麻美は折り紙をもう1枚取り出し、鶴を折り始めたのだ。

その光景を見て、中沢さんは気づく。
「重い障害のある子は弱くて何もできないと思っていたが、大きな力を持っているんや。私ができなかった麻美の心を開いてくれた。この子の優しさを引っ張り出してくれたんやから」
同時に、「重い障害のある子どもたちが大事にされる社会は自分たちの命を守ることであるのだ」と。

メッセージ参加を含む26万人が参加した「抱きしめてBIWAKO」から4 年後、第一びわこ学園は草津市へ移転し、木を基調とした温かみのある宿場町風の施設に生まれ変わった。
現在、草津市と野洲市の施設などに約230人が暮らし、約140人が通ったり、訪問介護を受けたりしている。
移転から6年後に高谷さんは退職したが、今でも非常勤で週1回の外来診療をこなしている。

びわこ学園の玄関には、創設者で「日本の障害者福祉の父」といわれた糸賀一雄の写真が飾られている。糸賀は「この子らと家族がもし不幸であれば私たちの社会もまた不幸である」と考え、「この子らを世の光に」と提唱した。

その薫陶を受けた高谷さんは、相模原事件について、「容疑者個人の問題としてすませてはいけない」と述べ、こう訴える。

「大事なことは、障害があろうとなかろうと、その人を個人としてその人格を尊び、そのことが保障される地域、社会を築いていくこと。それが私たちを守ることでもあるんやで」(つづく) (矢野宏/新聞うずみ火)
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