国境の川・豆満江を挟んで左側が中国図們市、右側が北朝鮮の穏城(オンソン)郡。2012年7月撮影パク・ヨンミン(アジアプレス)

◆中国の朝鮮族

二本の川のうち豆満江の中国側は、吉林省延辺朝鮮族自治州である。州内の人口の4割強、約85万人が朝鮮族である。国籍は中国だ。

朝鮮民族がいつごろから中国に住み始めたかというと、19世紀中ごろに新たな開墾地を求めて朝鮮から渡河したのが始まりだといわれる。そして、日本が朝鮮半島を植民地支配すると、困窮した農民が大量に越境した。また、同様に日本の支配下にあった「満州」に、国策移民として送り込まれた朝鮮人も数十万人に及んだと推定される。

現在、朝鮮族は吉林省、黒龍江省、遼寧省を中心に約190万人を数える。大多数は、もともとの故郷を朝鮮半島の北部に持つ人々で、同じように南部朝鮮の人々が日本に移住して在日朝鮮人となったのと相似している。なお、黒龍江省のハルビン近郊には南部朝鮮出身者が多い。
※注: 多くの朝鮮族が韓国、日本などの海外と中国内の大都市に移住したため、延辺はじめ東北部の朝鮮族人口は激減している。

中国朝鮮族と北朝鮮の人々は、近現代の悲しい歴史をたくさん共有している。朝鮮戦争では約2万人にのぼる中国朝鮮族の兵士が北朝鮮の朝鮮人民軍に編入されて、韓米軍と戦った。休戦後そのまま北朝鮮に残った青年たちも多く、彼らは中国に親戚がいる。また、1960年代には中国朝鮮族の北朝鮮「帰国」がブームになった。

この当時の生活水準は、朝鮮族によると朝中間で同じか、むしろ北朝鮮の方が良かったようだ。朝鮮戦争によって青壮年の男子を数多く失った北朝鮮が、労働力確保のため「祖国帰還」を呼びかけたといわれる。

また、60年代後半からは中国が文化大革命の混乱期に突入する。朝中関係は極度に悪化し、中国朝鮮族のなかには、紅衛兵に「金日成の特務(スパイ)」「民族主義分子」として迫害を受ける人々が大勢生み出された。

正確な数は不明だが、このようにして万単位の中国朝鮮族が、現在とは逆さまに、豆満江・鴨緑江を越えて北朝鮮に渡った。この帰国朝鮮族は北朝鮮で様々な制約を受けたという。

「どんなに努力しても、『中国縁故者』として進学や就職、労働党入党に制約があるんです」
とは、かつて中国から北朝鮮に帰国し、現在再び北朝鮮を脱出した難民に共通する証言だ。

この点でも中国朝鮮族は在日朝鮮人と相似している部分がある。
朝鮮民族は、かつては日本の植民地支配、60年代は中国、そして現在は北朝鮮の政治に翻弄されて国境の川を越境してきた。豆満江が、涙流れる悲しみの川として唄われてきた所以である。

さて、この朝鮮族のルーツは多くが現在の北朝鮮地域である。したがって、北朝鮮に親戚を持つ人も多く、北朝鮮との小商いを生業としている人もかつては多かった。言葉も近く、延辺訛りの原型は咸鏡道の方言だ。北朝鮮難民は、この朝鮮族社会に潜り込む形でひっそりと暮している。

親戚や知人を頼って越境してくるケースが少なくない。いわば、朝鮮族190万人の「人民の海」に紛れての潜伏生活だ。しかし、あまりの難民の多さにすでに朝鮮族だけでは難民を支えきれなくなっている。飽和状態になってしまったのだ。

それではまず、北朝鮮難民がいつごろから、どのような理由で発生したのかについてみてみよう。(続きを読む)

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