原子力の安全性に長年警告を発し続けてきた「熊取6人衆」と呼ばれる研究者の一人で、京都大学原子炉実験所元助教授の川野眞治さんの講演が 8月30日、大阪市此花区ののクレオ大阪西で開かれた。川野さんは「市民と『アカデミズム』のはざまで」と題し、伊方原発訴訟を振り返りながら、大学のあ り方、学問のあり方にまで幅広く話を展開した。(鈴木祐太 矢野宏 新聞うずみ火)

「国が進めている核燃料サイクルは、この10年間、技術革新や進歩がほとんどない」と話す京都大学原子炉実験所元助教授の川野眞治さん(撮影:門哉慧遥)

「国が進めている核燃料サイクルは、この10年間、技術革新や進歩がほとんどない」と話す京都大学原子炉実験所元助教授の川野眞治さん(撮影:門哉慧遥)

◆放射能に日常的に向き合わざるを得ない今こそ、自ら考えることが必要 

私は1969年に京大原子炉実験所に入りました。専門は物理です。例えば、塩はナトリウムと塩素からできています。物質のミクロな構造がどうなって いるのか、どういう形で並んでいるのか、原子炉から出てくる中性子を塩に当て、そこから反射して出てくる中性子の分布などから調べるのです。

原発の専門家ではありませんが、この原子炉実験所に入る時に「まずは原子炉を安全に管理運営してください。余った時間で好きなことをやってください」と言われ、原子炉の維持・管理・運転にも従事してきました。

さらに、原発について勉強する機会を得ました。四国電力の伊方原発訴訟です。

1972年11月に原発の設置許可が出ます。地元住民が異議申し立てを行いましたが、棄却されたので、73年8月に原子炉設置許可の取り消しを求めて松山地裁に提訴したのです。

住民から技術的なサポートをしてほしいと言われ、裁判を一緒に闘う中で原発とはどういうものか学びました。

被告である国は東大出身の学者を中心にした証人をそろえ、受けて立つという感じでしたが、証人尋問が進むと答えられないことが多く出てきて、次々に論破されていきました。

裁判長もおかしいと思いながら聞いている。旗色が悪くなった国側がどんな手段に出たかというと、判決前に裁判長を交代させたのです。次の裁判長は一度も法廷に姿を見せませんでした。体調不良ということで、さらに別の裁判長に交代し、3人目の裁判長が判決を下したのです。

しかも、裁判の中で国側が「炉心溶融に至ることまで想定していない」と証言していたにもかかわらず、判決文では「炉心溶融は想定している」と書いた。そんな茶番のような裁判でした。

「地震のリスクと過酷事故もあり得る」「過酷事故と結びついた原発震災が起きる可能性がある」と主張しましたが、最高裁は92年、住民側の上告を棄却しました。

スリーマイル原発やチェルノブイリ原発事故が起きた時でも、原発を推進したい学者たちは「日本は技術大国だ」とか、「ソ連だから起きた」などと言ってきましたが、2011年3月、東京電力福島第一原発事故が起きたのです。

国が進めている核燃料サイクルはトラブル続きで、この10年間、技術革新や進歩がほとんどありません。特に、使用済み核燃料の処理技術に関しては基 本的にはないといってもいい。IT産業や電気自動車などの急速な普及と比べると、原子力産業の技術革新は、膨大な金をつぎ込んでいるにもかかわらず、内容 が乏しく、産業として自立していけるのか疑問です。原発だけが建設されて、使用済み燃料が貯まり続けているのが実情なのです。

最終処分場問題にしても、ほとんど進展していません。実際に10万年以上にわたって安全に埋設できるのかという根本的な課題があるためです。日本は地震列島であり、高い人口密度、地下水脈も多く、最終処分場に適する土地が本当にあるのか、疑問です。

福島第一原発事故から3年あまり、私たちはどのような社会を目指すのか、放射能に日常的に向き合わざるを得ない今こそ、誰かに依存するのではなく、自分で考えなくてはいけません。
【鈴木祐太 矢野宏 新聞うずみ火】

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