テヘラン市街、近所の公園にて。老若男女問わず、イラン人は公園が大好きだ。(大村左知子撮影/2009)

テヘラン市街、近所の公園にて。老若男女問わず、イラン人は公園が大好きだ。(大村左知子撮影/2009)

 

◆テヘランの「子ども会」

朝10時、職場に向かう私を見送った後、妻は洗濯などの家事をこなし、遅い昼食を取る。午後は近所の公園に息子を連れて行ったり、商店や馴染みのケーキ屋で買い物をしているようだ。
歩いて10分ほどのところにあるバザールへは、できるだけ私が休みの日に一緒に行くようにしていた。バザールでの買い物は、肉も野菜も1キロ、2キロ、卵 も30個入りワンプレートで買うため、妻が子連れで持ち帰るのは困難だからだ。それでも妻は息子を連れてしばしばバザールへ出かけていた。どこの売り場で も妻と息子の顔は知られていて、会計のときには大抵、レジの兄ちゃんが息子を抱っこしてくれたり、逃げ出さないように捕まえていてくれたりするという。

ときには息子を抱えて、市バスや地下鉄で友達の家まで遊びに行くことも珍しくなかった。バスはたいてい混雑しているが、赤ん坊を抱えていればまず席を譲ってもらえるし、赤ん坊だけを膝に置かせてくれる女性客もいるという。
車内では誰かしら声をかけてくれたし、息子が泣いたり騒いだりして静かにさせようとしたら、「いいのよ、子どもなんだから!」と逆にたしなめられてしま う。一度地下鉄で、女性専用車両ではない普通車両に乗ってしまったとき、すし詰めの車内で息子を抱いた妻の回りだけ、周囲の男性客によってスペースが作ら れていたという。

イラン人が子ども好きなのに加え、レディーファースト、とりわけ子どもを抱いた母親への配慮が社会通念として徹底されているため、どこに行ってもい やな目にあうことは基本的にはないというのが妻の認識だった。もともと勝手知ったるこのテヘランで、妻が息子と家に閉じこもることは考えてもいなかった が、私が考えた以上に妻は外に出かけ、私の知らない間に友人を増やしていった。

ある日私がそのことを問うと、「ここで生活していくんや、という覚悟の現れやな」と妻は言った。夫の実家での1年にわたる仮住まいでは、いずれどこ かへ行くという思いから、友達を作ったり、地域に溶け込もうとしたりする意欲も湧かなかったという。その反動が今現れているのだ。

その反動を受け止める受け皿の一つが、「バッチェミーティング」(「バッチェ」はペルシャ語で「子ども」の意)という日本人ママのサークルだった。 ちょうど私たち夫婦が日本に帰国していたときに結成された、まだ新しいサークルだ。参加するのは、主にイラン人の夫と小さな子どもを持つ、テヘラン在住の 日本人女性である。

異国での生活や子育ての悩みなど、情報交換の場を持つとともに、子どもたちを安心して一緒に遊ばせことが会の目的だった。イラン人の舅、姑と同居す る日本人女性にとっては、重要な息抜きの場にもなりえただろう。いずれにしても、テヘラン市内でバラバラにつながりや付き合いを持っていた日本人女性たち が、子どもづれで定期的に集える場が生まれたことは、彼女たちにとって大きな意味を持っていた。

お母さんたちの共通の話題の一つは、イラン社会、ペルシャ語社会に暮らしながら、どうやって子どもに日本語を教えたり、日本の文化、行事、季節感を伝えたりするかということだった。
あいにく、衛星放送で見られるNHKワールドTVは英語放送で、日本語による無料放送は一日わずか数時間のみ。そこに子どもが見て楽しい番組は含まれてい ない。中東をカバーする完全な日本語衛星放送JSTVは、1カ月50ユーロのクレジットカードによる引き落としで、イランから利用するにはハードルが高 い。多くの国が文化戦略の一環として、または異国に暮らす同胞のため、衛星放送で自国語のドラマやニュース、子供番組を24時間無料で流しているのに、日 本という国にはその発想がないらしい。

そうした環境の中、このミーティングが子どもたちが主役の「日本教育」の場となっていくのは自然な流れだった。

会は隔週で行われ、会場は各家庭がローテーションで受け持つ。タバコをはじめとする、子どもにとって有害なものはいつしか禁止となった。会場主は役 員と相談し、その日の企画を事前に練っておく。手遊びや歌、絵本の読み聞かせ、お母さんのリラックス体操、ときには近所の公園でみんなで外遊びをするな ど、毎回趣向が凝らした企画が持ち上がり、子どもたちが楽しんで学べる場が出来上がっていった。特に日本の季節行事は楽しく盛大に行われた。

このバッチェミーティングの飛躍には、面白い副産物も見られた。会での昼食用に一人一品を持ち寄ることが決まると、皆で料理の腕を競うようになっ た。季節の行事にはそれに見合ったお菓子が持ち寄られ、おいしいイラン食には、誰もがレシピを書き留めた。あるお母さんは皆から好評を得た自家製パンで商 売を始めるまでになった。
日本でピアノの先生をしていたお母さんを中心に、楽器演奏の輪が広がり、クリスマスなどの行事ではグループごとの演奏会も開かれるようになった。妻もイランの打楽器ダフとオカリナを習い始めた。

妻は早々とこのバッチェミーティングの役員になり、積極的にその活動に関わっていく。そして、後にテヘランに作られる日本語補習校での活動とともに、イランでの生活と交友の幅を広げていくことになる。

一方、私は、人生初のサラリーマン生活に埋没していた。毎日決まった時刻に出社し、決まった仕事をこなしていれば、固定給と残業代がしっかりと振り 込まれ、保険も福利厚生も充実した生活だった。「セダー・オ・スィーマー(イラン国営放送)で働いています」と言えば、イラン人の誰もが警戒心を解いてく れた。ただイランが好きでこの国に住んでいたのなら、最大級の国営企業の職員という、寄らば大樹の安寧を謳歌することも出来ただろう。

けれども、ジャーナリストの仕事をするため、あえて問題のある息子を連れてまでイランに舞い戻った私は、残業に追われる日常の合間に日本向けの記事を書く、それも毒にも薬にもならないような日常雑記を書き続けていることに、安寧どころか強い焦燥感を覚えていた。

そんな思いを持ち越したまま、2009年という年を迎えた。この国の政治史に刻まれる、波乱の1年が幕を開けたのだ。

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