◆イラン温泉紀行(上)

妻の誕生日に合わせて二泊三日の休暇を取った。どこか近場で温泉でもないだろうかとイラン全土地図帳を引っ張り出し、索引で「アーベ・ギャルム(温 泉)」と探してみると、いっぱいある。日本ほどではないが、アルボルズ山脈やザグロス山脈など険しい山々が連なる国土には、無数の温泉が散らばっているの だ。
イランで温泉と言えば、イラン北東部の有名な温泉街「サルエイン」がある。4年ほど前、仲の良いイラン人一家と一度訪ねたことがある。男女別の、大きな屋 外プールのような温泉が幾つもあった。お湯はお世辞にも綺麗とは言えなかったが、大人も子供も大はしゃぎで、見ているだけで楽しかった。

イランの温泉宿では、個室の家族風呂が別棟にあり、本館から鍵路借りて利用する形式が多い。写真は宿泊したマハッラートの宿の家族風呂

イランの温泉宿では、個室の家族風呂が別棟にあり、本館から鍵路借りて利用する形式が多い。写真は宿泊したマハッラートの宿の家族風呂

 

そして、我が家にとって馴染みの温泉地は、テヘランからおよそ2時間、姿形が富士山を彷彿とさせるイラン最高峰ダマーヴァンド山の麓にある温泉街だ。
ダマーヴァンド山は標高5610m。温泉街は多くの登山客で賑わっている。山自体は禿山だが、温泉街周辺は緑豊かで、湯につかる以外に周辺を散策するだけでもリフレッシュできる。
羊や牛が放牧されている箱庭のように美しい村々を抜けて、木立の間をもくもくと登って行くと、泉があり、山に咲く花や虫を楽しめる。初夏なら、おばさんに 手招きされるまま、格安で庭のさくらんぼを好きなだけ摘ませてもらえる。夜は散策の疲れを温泉で癒す。かなり美味しい村の焼きたてのナンも食べられる。

そして今回私たちが目的地に選んだのは、マハッラートという町だ。テヘランから聖地ゴムを経由してバスに揺られること4時間。マハッラートの町に着いた頃にはすっかり日も暮れてしまった。ここはイラン全土に花を卸している、花の町という。
温泉そのものは町の郊外にある。シーズンの夏なら市街地からミニバスが幾つも出ているらしいが、今はシーズンオフなので、タクシーで行くしかない。

宿の裏手の丘からは、イランらしい乾いた平原の景色が一望できる。(イラン・マハッラート温泉)

宿の裏手の丘からは、イランらしい乾いた平原の景色が一望できる。(イラン・マハッラート温泉)

 

木立一本とない平原を緩やかに登ってゆくと、低い山並みの奥に、村の明かりが見えてきた。タクシーの運転手に「あまり高くないところ」と頼んで連れ ていってもらったのは、なかなか立派な白亜の建物だった。といっても案内された部屋の中はほぼガランドウだ。イランでは、温泉やカスピ海沿いのリゾート地 などの簡易な宿では、食料はもちろん、自身で敷物や寝具、煮炊きのガスバーナーまで自家用車で持参するのが普通で、そういう準備のない旅行者は設備の整っ た宿に泊まるべきなのだ。しかし、夜も遅いため、今夜はここでよしとしよう。ストーブは炊いてあるし、毛布だけは貸してもらえる。

すぐ村に夕食に出かけたが、食堂はなく、小さな商店で数枚のナンとホレシュト(煮込み)の缶詰を買うしかなかった。しかし嬉しいことに私の好物のサ レシール(ミルクの上澄み部分。脂肪分は40パーセント以上ある)が買えた。ナンにこれと蜂蜜をつけて食べる朝食を想像しただけで、朝が来るのが楽しみに なるほどだ。

宿に戻ると、急ぎ別棟のハマム(浴場)に向かう。貸切の家族風呂があるという。白いタイルで固めた半径1メートルほどの円形のお風呂だった。夜は冷 え込み、湯煙で息苦しいほどだ。お湯は無味無臭、皮膚病に良いらしい。我が家はシャワーしかないので、湯船はやはり気持ちがいい。

丘の上で戯れる他の観光客。山の上で自然に挨拶が口に出るのも日本と同じ(イラン・マハッラート温泉)

丘の上で戯れる他の観光客。山の上で自然に挨拶が口に出るのも日本と同じ(イラン・マハッラート温泉)

 

翌朝、朝食後の散歩がてらに、宿の裏手の小高い丘に登った。オフシーズンの割には、他にも結構宿泊客がおり、そこかしこでこの小さな丘登りを楽しん でいる。他にやることがないということもあるが、丘の頂からの眺めは思いのほか素晴らしかった。地球の丸みすら感じさせる褐色の平原を見下ろしながら、ガ リオン(水煙草)を吸い回している若者たちがいて、なんともうらやましい。声をかけられ、ひとふかし混ぜてもらう。妻と息子はほかの親子連れの記念撮影に 混ぜてもらっている。のんびりできて、なかなかいい場所だ。

とはいえ、昨夜は寒かった。一酸化炭素中毒が怖かったので(イランでは非常に多い事故)、眠るときにはストーブを消したのだが、明け方の冷え込みは毛布一枚でしのげるものではなかった。

丘の上からは、泊まった宿から少し離れたところにもう一軒、2階建てながら堅実な作りの建物が見下ろせた。聞けば、ジャハーンギャルディー(イラン観光局系列のホテルで、イラン全土にある)だという。

さっそく訪ねてみると、ツインルームで部屋代3000円ほどに朝食が付くという。昨夜安く泊まった分、もう一泊は少し贅沢しようということになり、 ここに宿を移すことに決めた。昨夜のような寒さはごめんだ。部屋は噂に聞いた通り清潔で、冷蔵庫もテレビも、備え付けのタオルもあった。

しかし、なにはともあれ温泉だ。このホテルには、別棟にハマムが2つある。まずは男女別の大理石の大風呂へ向かった。

妻は女湯へ、私は息子を抱いて男湯へ向かう。男女別れていても、イランでは公衆の場で全裸はありえない。受付では簡易な水着が売られているので、それを買って着替え、浴室に向かう。

白い湯煙に包まれた大理石の湯船は、ゆうに7、8m四方はあっただろうか。かけ湯して湯船にゆっくりつかる。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい。 浴槽の隅では絶え間なく熱いお湯が注がれていたが、湯船が広いためか、お湯は絶妙な温度を保っている。先客が2、3人いるようで、ぼそぼそという話し声が 浴室にこだましているが、湯煙で姿すら見えない。

昨夜、セラミックのタイルに絨毯敷きの固い床で寝て、すっかりこわばった背中の筋肉が、みるみるほぐれていくのが分かる。私にとっては至福の時間 だったが、息子はどうも表情がさえない。昨夜の家族風呂はあんなに大喜びだったのに、ここの大風呂は、広過ぎるし、湯煙で周りがよく見えないし、湯煙の向 こうの、おじさんたちの話し声が怖いのかもしれない。

そのとき妻も、大浴場を独り占めで満喫していた。1時間でも2時間でも入っていたかったらしいが、私と息子のことが気にかかり、後ろ髪を引かれる思いで切り上げたという。
ところが女湯の受付女性から、「もう出るの?早すぎる!旦那さんもお子さんもまだ出てないわよ。出てきたら教えてあげるから、それまで入っていなさいよ」 と言われて、また湯船に舞い戻ったという。実はそのときすでに私と息子は部屋に戻っており、受付の女性が気づいていないだけだった。それからいくら待って も私と息子が出て来ないため、不信に思った彼女は、男湯の受付まで確認に行き、慌てて浴室の妻に真相を告げにきたということを、私は部屋に戻ってきた妻に 聞かされた。

「でも彼女の勘違いのおかげでお風呂堪能できたよ。感謝しなきゃ」

と言いながら、フロントで買った、前と後ろの区別がない紫色の水着を私に不満げに見せたのだった。

イラン・マハッラート温泉の源泉。願掛けの紐がいくつも結わえられている。

イラン・マハッラート温泉の源泉。願掛けの紐がいくつも結わえられている。

 

ホテルの敷地内には源泉があった。源泉の温度は45度とそれほど熱くない。6、700年前に発見されたそうだ。
興味深かったのは、源泉を取り囲むフェンスに、無数の紐が結いつけられていることだ。フロントマンに聞いてみると、願掛けとのこと。宗教も文化も違うイラ ン人の、似たようなスタイルの願掛けの不思議さ。でも、なぜ源泉なのだろう。火を尊ぶゾロアスター教徒にとって、大地の熱が表出する源泉を神聖なものと受 け止めていた可能性は十分に想像できるけれど、イランがイスラム化して600年余。現代にも受け継がれているものなのだろうか。(つづく)

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