大阪空襲訴訟に対する最高裁判決は上告棄却。原告は怒りをかくせない。全面敗訴が決まったあとの記者会見で話す、原告の森永常博さん。(撮影・矢野宏 新聞うずみ火)

大阪空襲訴訟に対する最高裁判決は上告棄却。原告は怒りをかくせない。全面敗訴が決まったあとの記者会見で話す、原告の森永常博さん。(撮影・矢野宏 新聞うずみ火)

◆父は「防空法」によって逃げることを禁じられていた

「法の下の平等をうたった憲法14条は空文なのか。最高裁の良心、社会正義は一体どこへ行ったのか」

大阪空襲訴訟に対する最高裁判決は上告棄却。原告の全面敗訴が決まったあとの記者会見で、森永常博さん(81)=吹田市=は怒りを抑えきれなかった。

空襲の最中、父の最期の言葉を森永さんは今でも覚えている。

「女、子どもは危ないから逃げなさい。私は男だから大丈夫」と言ったあと、森永さんの頭をなで、母に向かってこう言った。「常博をくれぐれも頼む」

父は消火活動に向かった。

大阪は、1945年3月13日深夜から翌14日未明にかけて最初の大空襲に見舞われた。274機のB29が襲来、3時間半の空爆で、大阪市の中心部である当時の西区、浪速区、南区、大正区、東区、西成区、天王寺区が焼け野原になり、一夜にして4000人が亡くなった。

当時、森永さん一家は西成区出城通に住んでおり、鉄工所で技師をしていた父と母、母の妹の4人で暮らしていた。森永さんは12歳で長橋国民学校6年生。大阪府泉南郡へ集団疎開していたが、14日の卒業式を控え、帰宅して1週間後のことだった。

朝が明け、住吉公園から戻ると町内は燃え、所々煙が出ていた。自宅周辺へ入れないよう縄が張られており、母親が「家を見てくるからここで待っててや」と言い残して中へ入った。が、なかなか戻らないので、叔母と探しに行こうかと話していた時、憔悴しきった母が戻ってきた。

「お父さんが死んだ」

家は全焼しており、父親が道路に寝かされていた。(つづく)
【矢野宏 新聞うずみ火】

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