被災地には数多くのビラやポスターが出回った。左は流言蜚語を戒める警視庁の呼びかけ。それほどデマが広く流されていたことを示している。(警視庁『大正大震火災誌』口絵)

 

虐殺に加担した加害者の証言は数少ないが、まったく存在しないわけではない。ここでは当時、千葉県習志野騎兵連隊に所属していた兵士・越中谷利一(えっちゅうや りいち、小説家)の著作を挙げてみよう。(劉永昇

◆虐殺作戦に従事した軍人の証言

越中谷がいた騎兵連隊が出動したのは9月2日正午少し前だった。「とにかく恐ろしく急」で、人馬の軍装を整えて舎前に整列するまでに「所要時間が僅に三〇分位しか与えられなかった」。

2日分の人馬の糧食と予備の蹄鉄、実弾60発を携行し、「さながら戦争気分」であったという。

午後2時頃亀戸に到着すると連隊はただちに「列車改め」を行い、1人の朝鮮人を引きずり下ろすと、サーベルや銃剣でめった刺しにした。日本人避難民の中からは嵐のような「万歳歓呼の声」が上がった。越中谷の所属する連隊はこれを皮切りに、

其の日の夕方から夜に這入(はい)るに随(したがい)て、いよいよ素晴らしいことを行(や)りだしたのである。
(「戒厳令と兵卒」『戦旗』1928年9月号)

戦後になってこの文章をもとに書いた「関東大震災の思い出」(『日本と朝鮮』1963年9月1日号)で、越中谷は「素晴らしいこと」を「本格的な朝鮮人狩り」と書き直している。

こののち除隊した越中谷は、自らの加害体験を小説にして発表する。

ああどうしたならば殺すことが出来たのか?――自分の前によろよろと両手を合わして跪いた彼等、国を××れ、国を追われ、××と侮辱と虐遇の鉄鞭に絶えず生存を拒否されつつ流浪して、今喰うに食なく、宿るに家なき――彼等を、どうして此の××××××××突くことが出来たのか。(『一兵卒の震災手記』)

検閲を受け伏字だらけのこの作品は、加虐の記憶に苦しむ越中谷の悔恨と読むことができる。この作品は1927年9月『解放』に発表されたが、発表時はもっと伏字が多かった。

越中谷利一(1901-1970)(『越中谷利一』著作集より)

◆「不逞日本人のせい」と喝破した司令官

流言蜚語のでたらめさを見抜いていた軍人もいる。神奈川警備隊司令官だった奥平俊蔵陸軍中将(当時少将)である。

9月4日に着任し、横浜周辺の救援と治安回復にあたった奥平は、市中にしきりに流される流言を調査しその信憑性に疑いを示している。

「横浜の鮮人に関する調査報告」
九月一日夜、北方町に在住の鮮人15、6名の中、4名は倒壊家屋の物資を窃取の目的にて、侵入せしを、市民の発見するところとなり、警官及び在郷軍人などと協力これを逮捕し、殺害せりとの風評あるをもって、取り調べたところ、鮮人の行動を確実に認めたるものなく、確証なし。(山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」より引用)

翌1924年、中将に昇進し予備役に退いた奥平は後年自叙伝を著し、当時の体験を語っている。(原文の旧かなを改め、句読点と改行を加えた)

四日 午前六時膠州(注=船名)は港内に進入し軍隊は艀舟にて谷戸橋附近に上陸す。(中略)この時市民数人一朝鮮人を縛し海軍陸戦隊に連れ来るを見て法務官をして取調べしむ。

後に聞けば法務官も一応取調べたるも別に不審とすべき所なきをもって一応海軍に預け置きたるに、市民は更にこれを海軍より引き取り、谷戸橋下の海中に投じ数回引き上げてはまた沈め、遂に殺害せりという。
(栗原宏編『不器用な自画像―陸軍中将奥平俊蔵自叙伝』柏書房、1983年)

横浜でこうした数々の惨劇を目の当たりにした奥平は、「不逞日本人」の犯罪を糾弾する。

騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして、彼等は自ら悪事を為し、これを朝鮮人に転嫁し事ごとに朝鮮人だという。(中略)

横浜に於ても朝鮮人が強盗強姦を為し、井戸に毒を投げ入み、放火その他各種の悪事を為せしを耳にせるをもって、その筋の命もあり、かたがたこれを徹底的に調査せしに、ことごとく事実無根に帰着せり。(中略)

重大なる恐慌の原因と成りしものは不逞日本人の所為であると認めるのである。(同書)

さらに具体的な犯罪の手口を語る。治安回復を担う責任者として忸怩たる思いがあったはずだ。

彼等不逞日本人等は学校備え附けの銃器全部を空包と共に掠奪し、避難民の集団に対しこれを保護すると称し、昼間は神妙なるも夜間に至れば仲間と諜合し空包をもって打ち合い、喊声を挙げ、朝鮮人襲来す、遁(に)げよ遁げよと呼ばわり、附近焼け残りの家屋にある人々はこれに驚き家を空にして逃げ去れば、空き家に入りて掠奪し、かつ避難民の集団よりも保護料を受領せりという。(同書)

南京戦で中華門に押し寄せる日本軍戦車部隊(『支那事変写真帖』東光社)

◆裁かれなかった殺人

抑圧した虐殺の記憶は、社会が極限状況に陥るたび繰り返し呼び起こされ、それがまた新たな悲劇につながった。空襲、原爆投下、敗戦後の混乱など、様々な場面で流言蜚語はリフレインした。

そして中国戦線での南京虐殺や無差別殺戮といった日本軍の残虐行為が発生した要因にも「裁かれなかった殺人」のフラッシュバックがあったと思われる。虐殺は正しかった、と信じ続けるために、何度も〝正しい殺人〟を反復しなければならなかったのではないか。

問題は過去のことではない。

2016年4月14日に発生した熊本地震では、「動物園からライオンが逃げ出した」「川内原発で火災が起きた」などさまざまなデマがSNSに流された。その中に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という発信があった。

2016年4月の熊本地震では新たな流言蜚語がSNSに流された

◆新たなデマを流す者が今も絶えない

2021年2月13日、福島県沖で最大震度6強の地震が起きた時も、同様の「井戸に毒」という流言蜚語ツイートが数多く流された。朝日新聞デジタルの記事によれば、4月下旬までの「井戸に毒」を含む投稿は、批判の趣旨でリツイートされたものも含め6万6000件にのぼったという。それ以外にも投稿後に削除されたものがあった。(朝日新聞デジタル、2021年5月3日)

記事では投稿者の2人の男性にインタビューを行っている。34歳・工事現場作業員の男性は投稿の目的をこう語っている。

「『井戸に毒』のパロディーで、何かネタにしてやろうと思ったんです」

もう一人は京都大学出の20代・システムエンジニアの男性。彼は記者に関東大震災後のデマと虐殺を知っているかと問われ、

「当時の日本人は愚かだった。今この言葉を使うことと、虐殺の歴史は別の話」
「情報の真偽を判断する責任は受け手にある」

と答えている。投稿者はどちらも「ただのネタだ。目くじらを立てるな」と言いたげである。

また本連載の開始早々にも「デマを書くな」という反応があった。そこにはこう書かれていた。

「最近地震があるたびに朝鮮人がしていることを見れば、真実なのは明らかだ」

この人物は、SNS上のデマを完全に真実と信じているのだ。

◆ごまかしない真実と向き合う態度

100年前に隠蔽した記憶が、今新たな流言蜚語を生み出している。悲劇がいつまた繰り返されても不思議はない。回避のためには、負の記憶を呼び起こし、ごまかしのない真実と向き合う態度が求められよう。

関東大震災100年を機に、日本社会の中にそうした動きが広く起こることを願ってやまない。その痛みを自ら取り戻さないかぎり、真にこの社会が過去の傷から回復することはないのだ。

最後に現代韓国文学の重要な作品から言葉を引き、連載を締めくくりたい。

「今、自分が経験しているどんなことからも、私を回復させないでほしい」
(『回復する人間』ハン・ガン著/斎藤真理子訳)

(敬称略、終。  一覧へ

劉 永昇(りゅう・えいしょう)
「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。

 

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