集会後、会場を後にするエブラヒム・ヤズディー氏と、彼を暴徒の襲撃から守るため、「人の鎖」で囲むボランティアたち。ヤズディー氏は、革命前はフランスに住むホメイニ師の相談役を務め、革命後は外務大臣、首相顧問等の要職を歴任。改革派の重鎮の一人として今回の選挙に立候補届出を行ったが、資格審査で落とされた。現体制による逮捕歴も多数ある。(撮影筆者 2005年6月)

集会後、会場を後にするエブラヒム・ヤズディー氏と、彼を暴徒の襲撃から守るため、「人の鎖」で囲むボランティアたち。ヤズディー氏は、革命前はフランスに住むホメイニ師の相談役を務め、革命後は外務大臣、首相顧問等の要職を歴任。改革派の重鎮の一人として今回の選挙に立候補届出を行ったが、資格審査で落とされた。現体制による逮捕歴も多数ある。(撮影筆者 2005年6月)

 

◆第9期イラン大統領選挙(3) ~イラン政治の洗礼
学生たちの流れとともに、カールギャル(労働者)通りをまっすぐ南に下ってゆく。途中、右手に懐かしい建物が見えた。私とディックが1年余を過ごしたテヘラン大学生寮だ。ほとんどの建物の窓ガラスは割れ、代わりにシーツやビニールなどが張られている。学生の姿もまばらだ。道路に面して建つ留学生棟23号棟も、今や誰も住まない廃墟と化している。

1999年7月、テヘランで発生した騒擾事件は世界を驚かせた。この事件は、改革派系新聞サラーム紙の発禁処分に端を発し、抗議運動の震源地となったテヘラン大学学生寮は、一昼夜に渡って革命防衛隊、治安部隊、「私服」と呼ばれる保守派民兵の攻撃にさらされた。寮内の施設は破壊され、学生側の死者7名、逮捕者数百名を出し、拘束後に行方の分からなくなった者も多数いたと言われる。

この寮襲撃事件の余波はイランの各都市に野火のように広がり、イスラム革命(1979年)以来最大の騒擾事件と呼ばれることになる。テヘランでは、この事件の責任追及の矛先が最高指導者ハメネイ師に向けられ、学生たちのデモ隊が最高指導者事務所の間近まで迫り、治安部隊と一触即発の事態にまで発展した。

この事件以降、毎年7月18日は、追悼集会が行われ、学生と当局側の衝突が起こる記念日となった。
昨年、私が寮を出た1ヶ月後の7月18日にも、学生寮は暴徒の襲撃を受けた。「私服」たちは寮内で破壊の限りを尽くし、逃げ惑う学生たちに暴行を加え、2階から突き落とされた学生もいたと聞く。死者が2、3名出たとも聞いた。

留学生棟である23号棟も、道路から最も近いために散々投石を受け、窓ガラスは全て割れ、一部の部屋には出火の痕も見られる。
しかし、破壊を行った側に誰一人として裁かれた者はおらず、死者も行方不明者の存在も、真相の多くは明らかにされないままだ。

それが私の忌み嫌った「物騒」なこの国の政治だった。
学生寮からアーミーラバード交差点まではほんの200メートルほどだ。そこでは、まさに言われた通りの光景が展開していた。

交差点を渡って直進しようとする人々に、治安部隊が警棒を振り回して左折を強要している。一旦左折した学生たちは、またカールギャル通りに戻ろうとするが、治安部隊がそれを押し戻す。警棒を振り上げて威嚇する治安部隊の表情には余裕が見えない。20メートル四方ほどのさして大きくもないその交差点は、暑さと人いきれと喧騒、そして苛立ちが充満していた。

押しては返す波のように、治安部隊のカーキ色の波が学生たちに押し寄せ、そのたびに学生たちも挑発を繰り返す。女子学生たちは治安部隊に向けて声を合わせる。
「ニルイエンテザーミー、ヘマーヤット!ヘマーヤット!(治安部隊は味方!味方!)」
その声を無視するかのように、治安部隊が突如、雪崩を打ったように一気に突入してきた。悲鳴を上げて逃げ惑う女子学生を追い散らしたかと思うと、私とディックのいる方へも向かってきた。慌てて逃げようとしたが、前が詰まって先へ進めない。そうこうするうち、背中に鈍い衝撃が走った。

ディックは少し離れたところで、珍しく興奮した面持ちで立っていた。青ざめた私の顔を見て言った。
「殴られたのか?」
私が頷くと、ディックは腹を抱えて笑った。リュックサックを背負っていたので、大して痛くはなかった。ただ、この不快さは何なのだろう。警棒を叩きつけられた衝撃が、まだ背中に痺れのように残っている。痛みではなく、心に響く不快な衝撃。権力を持つ者によって、追い立てられ、野良犬のように殴りつけられた悔しさと恐怖が、心に深く暗い陰のようなものを残していた。

「イチローが~、なぐられた~」
「うるさいなあ!」
ディックが上機嫌にからかうのを見て、少し救われる気がした。
(続く)

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