幸い、守衛らしき人の姿は見られず、出入りは自由のようだった。庭を抜け、建物に入り、黒シャツの青年に来訪の目的を告げると、すぐに広報部の責任者を呼んできてくれた。やはり黒尽くめのレザー・ハー広報責任者は、私の質問に丁寧に答えてくれた。
「これまでの政府は石油やガスの売買だけに熱心で、それによって潤うのはわずか2500人程度の関係者にすぎなかった。アフマディネジャードの政府は全人口7000万人の、民衆のための政府なのです。石油やガスは神からの贈り物であり、すべての国民にその利益を還元しなければなりません」

現在の政府を、そして石油省を牛耳るラフサンジャニ師を、まるで王政時代の政府にたとえ、アフマディネジャードを、革命を勝利させてイスラム政権を樹立した故ホメイニー師になぞらえることは、やはり選挙の基本戦略であるようだ。

ではどのように石油収入を国民に還元してゆくのか。
「例えば、国民がいま必要としているものをよく検討し、そこに投資します。特に、若者が抱える諸問題の解決が最優先です。一例ですが、イランには5100万ヘクタールの耕作可能な土地がありますが、実際に開墾されているのはわずか900万ヘクタールにすぎません。残り80%にあたる4200万ヘクタールを開墾する事業に石油収入と無職の若者を投入するという案もあります」

なるほどと思いながら、私は選挙本部を後にした。しかし、わずかも歩かないうちに、このイラン版ニューディール政策に疑問が沸いてきた。あたりを見渡せば、建設ラッシュのテヘラン市街では、いたるところでアパートの新改築が進められている。レンガを積み上げている建設労働者のほとんどはアフガン人だ。たとえ失業していても、この3K職種に進んで就こうというイランの若者はいない。

6月22日、改革派系日刊紙「シャルグ」は、決戦投票を翌々日に控えたその日の朝刊で、改革派を支持する人々に街へ出て議論しようと呼びかけた。開始は夕方6時、場所はテヘラン市街の5つの広場が指定された。

ヴァリアスル広場ではほぼ時間通り、6時過ぎから人が集まり始めた。どこかで議論が始まると、その周囲に人垣ができ、その人垣の誰かと誰かがまた議論を始める。あちこちに10人程の人垣が自然に生まれ、それを見た通行人がまた集まり、いつしか広場の東と西にそれぞれ500人は下らない群集が出来た。

シャルグが街頭討論を紙上で呼びかけたのは改革派の支持者だけだったが、そこにはほぼ同じ数のアフマディネジャード支持者までが集まり、さらに議論をエスカレートさせていた。

互いにまったく思想の違うもの同士が、いたるところで、誰はばかることなく自分の信条、国の将来について話し、思いを吐露している。それは、公式な政治集会ではなく、一新聞社が呼びかけた、広場という公共スペースでの自由集会だからこそ成り立つ光景なのだろう。そしてまた、帰宅途中、この前代未聞の光景に足を止め、目の前で交わされる赤の他人の議論に躊躇なく割って入り、自らの意見を胸を張って主張できるイラン人だからこそ、生み出せる光景なのだ。こよなく言論を愛し、そして言論を重んじる人々だからこそ。

外国人である私を見て、21歳の大学生が話しかけてきた。
「僕は1回目の投票には行かなかったけど、決戦投票には行くよ。アフマディネジャードが大統領になったら26年前に逆戻りだからね」
24歳の新聞記者の女性も真剣な顔で言う。

「あたしはアフマディネジャードが本当に怖い。ラフサンジャニは大嫌いだけど、最悪よりはマシな選択だわ」
それを聞いた青年が返す。

「静かで、穏やかな生活が一番じゃないか。僕は宗教と伝統を大事にしたい」
夜9時を過ぎても激論集会は終わらなかった。始めるのも、終わらせるのも、人々の意思である。今日の集会が終わっても、今日の日のようなイランがずっと続いていけばいいのにと心から思った。

24日、決戦投票が行なわれ、翌日開票結果が明らかになった。
総投票数27,959,254票 投票率56%
マフムード・アフマディネジャード 17,248,782票 得票率61.6%
アキバル・ハシェミ・ラフサンジャニ 10,043,489票 得票率 35.9%
アフマディネジャード政権は2005年9月より始動する。

26年前、故ホメイニ師が弱者、被抑圧者の救済を掲げて立ち上げた革命政権は、その翌年、イラクのサダム・フセインによるイラン侵攻で急遽戦時体制を余儀なくされ、革命の理想は置き去りにされたまま8年の戦争に突入した。戦後の復興を終え、体制が安定した今こそ、革命の理想をよみがえらせようというのがアフマディネジャードの本意である。彼はその後の8年間に及ぶ治世で、内外に大きな波紋を呼びながらも、自らの理想の実現に邁進することになる。

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