◆患者を切捨てる「77年基準」~患者より会社を優先

水俣駅を降りると正面に旧チッソのJNC水俣工場が(=熊本県水俣市で撮影:栗原佳子)

水俣駅を降りると正面に旧チッソのJNC水俣工場が(=熊本県水俣市で撮影:栗原佳子)

この判決を経て結ばれた補償協定書により、熊本県や鹿児島県から認定された患者に補償金が支払われることになった。環境庁は71年に「メチル水銀の影響が否定できない患者は認定する」という基準を通知していたが、77年に方向転換。感覚障害に運動失調、視野狭窄などの症状の組み合わせを必要とする厳しい「77年(52年)基準」を打ち出した。補償金の支払いでチッソが倒産するのを防ぐための「患者切捨て」基準。以降、申請が保留・棄却される事例が続出。坂本さんも78年に申請したが、認定されなかった。

「チッソは、『国策』会社なんです。事故を起こした企業が守られるのは、今の東京電力と同じですよね」
川上敏行さん(89)=東大阪市=は水俣病と福島第一原発事故を重ねあわす。自身も70年代に認定申請したが、40年間も棚ざらしにされた。
水俣市梅戸の二戸島で生まれ、漁をしながら、チッソの下請け会社で働いた。「昭和27、28年ごろでした。すばしこいグレなどが、水のないところに上がってくる。チヌやココダイがふらふら泳ぐ。とって見ると目が真っ白で潰れていたり...。水銀の影響があったのでしょうが、汚染した魚とは知らずに食べていました」

川上さんの家族にも56年、劇症患者が出た。父の後添いのタマノさん。「母を支えて歩くとき、土地の人に後ろから笑われたり...。とても悔しい思いをしました。本人も辛かったろうと思います」。タマノさんは石牟礼道子さんの『苦外浄土』に「坂上ゆき女」という名前で描かれる女性患者だ。
川上さん自身が水俣病の症状を覚えたのは68年に大阪に転勤してきた頃だった。通勤途中激しい頭痛に襲われることが頻繁に。「いつも、途中の駅で降りて薬を飲みしばらく寝ていなければなりませんでした」

82年、川上さんや坂本さんら関西で暮らす未認定患者は大阪地裁に「水俣病関西訴訟」を提訴。22年間に及ぶ裁判闘争は勝利で幕を閉じた。04年の最高裁判決は、国と県が廃水を規制せずに被害を拡大させた責任を初めて認めた画期的なもの。二審以降原告団長を担った川上さんは「それはうれしかったです」と相好を崩す。しかし、判決直後に臨んだ交渉で、国は「77年認定基準を見直すつもりはない」と川上さんたちを拒絶した。

水俣病は不治の病。川上さんも頭がふらつくときは横になり、枕に頭を押し付けて耐える。室内を注意深く歩いても突然、昏倒し、往生することがあるという。一緒に原告として闘った妻のカズエさん(85)は入院中だ。

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