壺井繁治を載せた汽車が群馬県の磯部駅で停車中、隠れていた3人の朝鮮人が捕縛される。彼らの運命はどうなったのか――。東京から遠く離れるほど流言蜚語の内容はエスカレートしていた。そこには新聞メディアの力が大きく働いていた。(劉永昇

◆捕えられた朝鮮人の運命

回想の中、壺井の乗る汽車は大宮から信越本線に入った。

途中停車場に着くたびに兵士が乗り込んできて、車内はもちろん列車の底まで調べ上げた。そして上州・磯部駅(群馬県)で3人の朝鮮人が客車の底に隠れているのが見つかった。

……暫くしてワッとときの声が上がった。そして哀れな三人の鮮人労働者はこの土地の青年団の手に依って捕えられたのだ。ときの声に交って、やっつけちまえ、だとか、殺しちまえ、と云うような声が私の耳に微かに聞き取られた。……車内の人々は今の出来事をとりどりに話し合った。鮮人が列車の底に隠れていたのは、この列車を顚覆さすためだったのだと断定を下す奴もあった。

捕えられた朝鮮人はどうなったのだろうか──。

御蔵橋に打ち捨てられた死体(『サンデー毎日』1975年9月7日号)

『関東大震災朝鮮人虐殺の記録―東京地区別1100の証言』(西崎雅夫編著・現代書館)から東京市内の事例を引こう。まず両国国技館の北西に架かる御蔵橋での惨劇である。

五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時(いつ)しか死して行く。(墨田区・成瀬勝、当時20歳)

現在「朝鮮人犠牲者追悼碑」が建つ横網公園も虐殺の現場となった。

(被服廠跡(現・横網公園)の)わずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を四人、十人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイ(棒杭)で押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に「こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ」と、目が血走っているのです。(墨田区・浦辺政雄、当時16歳)

関東大震災直後の被服廠跡地(現・横網町公園)。敷地を埋める避難民の遺体
(1923. Robert L. Capp Collection)

◆軍による殺戮の証言

震災の巷で暴徒と化したのは朝鮮人ではなく日本人の方だった。流言蜚語を鎮圧するために治安出動したはずの軍隊も率先して殺戮を行った。

軍隊が殺したけど、言っていいのかどうか……。綾瀬川の河原でね、一二、三人ぐらいの朝鮮人を後ろ手に縛って数珠つなぎにし、川のほうに向かせて立たせて、こちらの土手の上から機関銃で射ちましたね。(葛飾区、横田=仮名)

四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、十人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。(葛飾区、浅岡重蔵)

『関東大震災朝鮮人虐殺の記録―東京地区別1100の証言』(西崎雅夫編著・現代書館)

◆地方に拡散する流言蜚語

これらは東京の事件だが、磯部駅のある群馬県でも虐殺事件は起きている。よく知られた「藤岡事件」がそうである。この事件では警察が保護した朝鮮人の引き渡しを求めて、土地の自警団が署内に乱入。計17人の朝鮮人を引きずり出して殺害した(「藤岡町役場文書」)。

戒厳令が出ていない地方にも「不逞鮮人襲来」のデマは押し寄せた。その先鋒役となったのは新聞メディアだった。

壺井を乗せた汽車は篠ノ井駅(長野県)に停車、彼はここで1泊する。同地の県紙『信濃毎日新聞』には、9月4日「不逞鮮人脱獄して軍隊と大衝突」とデマが大きく報じられている。

翌日は塩尻で中央線に乗り換え名古屋へ向かった。名古屋の新聞『新愛知』を見ると、
「井水用水路に毒薬を投じ群集に爆弾を▲(投=欠字)じ各所に放火し 不逞鮮人支那人盛んに跳梁す」(9月3日号外)

「不逞鮮人一千名と横浜で戦闘開始 歩兵一個小隊全滅か」「発電所を襲う鮮人」「屋根から屋根へ鮮人が放火して廻る」(9月5日号外)

『新愛知』はさらに5日付本紙でも、岐阜県不破郡の陸軍火薬庫に「三百人の不逞漢集まる 不穏の形成―軍隊出動」という隣県でのデマ事件を報じている。

被災地から遠ざかるほど流言の内容は大げさにエスカレートしていった。地震と大火災で発行能力を失った首都圏の新聞に代わって、地方の新聞がデマ拡散に大きな役割を果たしたのである。
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