原敬首相暗殺事件の大誤報の新聞記事(『大阪朝日新聞』号外)

 

関東大震災当時の帝都・東京では、〈不逞鮮人〉への憎悪と恐怖が急激にふくらんでいた。虚実ないまぜに膨張した朝鮮人に対する負のイメージは、どのようにして作られたか。(劉永昇

◆虚実ないまぜにふくらむ〈不逞鮮人〉のイメージ

朝鮮人の取り扱いをめぐる混乱の中で、いくつかの重大事件が発生した。

1921年(大正10)11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺される。犯人の中岡良一を取り押さえた警官は「貴様、朝鮮人だな」と断定し、事件を『大阪朝日新聞』号外は「原首相鮮人に刺され東京駅頭にて昏倒す」と誤報を打った。

また同年6月には市電運転手の朝鮮人・李判能による日本人殺傷事件が起きている。李は東京東大久保で同居する同僚一家および上司一家を殺害後、通行人を襲うなど17人を殺傷して逮捕された。

日本人の同僚からいやがらせなどの差別を受けていたなど、動機に情状酌量の余地があったこと、犯行時心神耗弱状態にあったことから、一審では無期懲役判決、控訴審では懲役7年に減刑された。

だが、当時の警視総監・赤石濃は、この事件のために東京人は「朝鮮人と云えば無性に恐怖する」のだと、震災時の朝鮮人虐殺の原因に結びつけてしまっている(『自警』1923年12月号)。

大衆の中で〈不逞鮮人〉のイメージは、虚実ないまぜに風船のように膨らんでいった。これが関東大震災前の帝都を覆う空気であった。

◆間違えられた日本人

関東大震災の混乱下でいわれなく殺害されたのは、朝鮮人や中国人だけではない。多くの日本人もまた被害にあっている。次に掲げる演出家・千田是也の証言はよく知られたものだろう。

「内苑と外苑をつないだ道路の方から、提灯が並んでこっちにやって来るのが見えた。あっ、“不逞鮮人”だと思い、その方向へ走っていった。不意に私は、腰のあたりを一発殴られてしまった。(中略) そのうち、例の提灯にも取りまかれ、「畜生、白状しろ!」とこづきまわされる。」

「私はしきりに、日本人であることを訴え、早稲田の学生証を見せたが信じてくれない。興奮した彼らは、薪割りや木剣を振りかざし「あいうえおを言え!」「教育勅語を言え!」と矢継ぎ早に要求してくる。(中略)もうダメだと覚悟したとき、「なあんだ、伊藤さんのお坊っちゃまじゃないですか」という声がした。(中略)その一声で私は救われた。」
(『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』西崎雅夫編)

危うく〈不逞鮮人〉に間違われ、殺されかけた千田だが、そうでなければ自分が加害者になっていたかもしれなかった。千田是也という芸名は、そのことの自戒を込めて、「千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)」という意味を持つと語る。

自警団が非常線を張り通行人を誰何している図(みすず書房『現代史資料4 関東大震災と朝鮮人』口絵より)

◆自警団が使用した「識別法」

いわば千田是也は不十分な「朝鮮人識別法」のために殺されかけたのだ。「あいうえお」や「教育勅語」「歴代天皇の名前」を言わせるのは相手の知識の有無を調べることでしかなく、日本人か否かを識別する方法としては不確実である。それに比べ「十五円五十銭」は巧妙だ。虐殺事件の目撃証言には、しばしば自警団がこれに類した識別法を用いている事例が出てくる。

例えば、タバコを見せ、「「バット」(タバコの銘柄『ゴールデンバット』のこと)と読めなければ日本刀で斬り殺した」。あるいは道路に鈴のついた縄を張り、鈴が鳴ると飛び出していって「サシスセソ、バビブベボを言ってみろと叫んだ」など。「十五円」を「一円」や「十円」とするバリエーションもある。

いずれも「語頭の音が濁らない」という朝鮮語のルールを逆手に取ったもので、内務省の「識別資料」に記されていた方法と同様であった。民衆が結成した自警団は、なぜこの方法を知っていたのだろう。そこには三・一独立運動の影が見られる。

『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』 (西崎雅夫編・ちくま文庫)

◆三・一独立運動のトラウマ

前年の1922年(大正11)まで朝鮮総督府で朝鮮人統治の改革にあたっていた水野錬太郎は、震災当時、内務大臣に再任されていた。警視総監・赤石濃もまた前職は朝鮮総督府の警務総監だった。さらに東京府知事・宇佐美勝夫は元総督府の内務長官である。

被災地の治安を司る要職にあった3人は、朝鮮におけるトラウマを共有していた。それは三・一独立運動鎮圧のため非武装の朝鮮民衆に銃口を向けた経験であった。震災時の「不逞鮮人襲来」の流言は、当時の記憶を呼び起こすものであったかもしれない。(敬称略 続く 8

劉 永昇(りゅう・えいしょう)
「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。

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