震災当時の浅草寺仁王門前。中央に積み上げられているのは自警団が「朝鮮人狩り」に使用した金棒や竹槍。(『関東大震災写真帖』日本聯合通信社・1923年)

朝鮮人虐殺という未曾有の惨劇は、作家の目にどのように映ったか。そして、どのように作品描かれたのだろうか。当時、多くの作家が震災の風景をつづったが、そこには文壇作家の限界が見て取れる。(劉永昇

◆震災文学

近代国家・日本が経験した初めての大震災は、〈震災文学〉と呼ぶべき一群の文章を生み出す。その多くは日記、手記、ルポルタージュという形をとった。作家の日記や手記には、被災体験とともに虐殺を見聞した記述があちこちに見られる。

志賀直哉は『震災見舞』に、
「丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。…「―鮮人が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ」…「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ」
「二人は笑つてゐる」

と書き留めた。

野上弥生子もまた、
「鮮人を殺した血でおみくら橋の下の水が赤くなって、足さえ洗われなかったという話」
を日記に書きつけている。

◆武勇伝を語った田山花袋

ほかにも泉鏡花、正宗白鳥、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐多稲子ら、数多くの作家が被災体験を書き残しているが、誰もが朝鮮人虐殺に憤慨したり、非難しているわけではない。

紀行文の名手・田山花袋は1924年(大正13)4月に単行本『東京震災記』をいちはやく出版する。作中では朝鮮人狩りに対しても批判的に触れている。だが、当時『中央公論』の編集者だった木佐木勝の日記には、次のような記述が残されている。

田山花袋。代々木の自宅にて(『田山花袋集』改造社より)

9月11日、震災体験の執筆を依頼するため木佐木は新宿から花袋の家のある代々木まで歩いていった。訪ねてみると家も無事、当時51歳の花袋自身もすこぶる元気で、木佐木相手にこんなことを語ったとある

「鮮人が毒物を井戸に投げ込むという噂を聞き、花袋老大いに憤慨、ある晩鮮人が自警団の者に追われ、花袋老の家の庭に逃げ込み、縁の下に隠れたので、引きずり出してなぐってやったと花袋老武勇伝を一席語る。」(『木佐木日記』)

◆曖昧な島崎藤村

一方で小説となると、日記などに比べてその数はぐんと少ない。最も早い時期に小説というかたちで作品を発表したのは島崎藤村である。

震災の約1ヶ月後の10月8日から22日にかけて、『東京朝日新聞』夕刊紙上に小説『子に送る手紙』を計10回連載している。その第1回には次のような場面がある。

「その時、私は日頃見かけない人達が列をつくって、白服を着けた巡査に護られながら、六本木の方面から町を通り過ぐるのを目撃した。背の高い体格、尖った頬骨、面長な顔立、特色のある目付なぞで、その百人ばかりの一行がどういう人達であるかは、すぐに私の胸へ来た。」
(『子に送る手紙』)

震災を生きのび虐殺を逃れた朝鮮人の多くは被災地を離れ避難した。しかし避難先にも流言蜚語は押し寄せたため多くの朝鮮人が、迫害から恐れて帰国を余儀なくされた。その総数は4万人を超え、震災前の在日朝鮮人人口のおよそ半数にものぼった。藤村が見たのはそうした人々の一団だった。

「その人達こそ今から三十日程前には実に恐ろしい幽霊として市民の眼に映ったのだ。」

島崎藤村(大正14年頃)(『島崎藤村集』新潮社より)

それにしても藤村は、なぜこれほど曖昧な表現をしたのか。連載開始当時、朝鮮人虐殺はいまだ報道統制下にあり、それが解禁されたのは連載終了直前の10月21日だった。翌22日の最終回に、藤村は次のように書く。

「怪しい敵の徘徊するものとあやしまられて、六本木の先あたりで刺された人のことを後になって聞けば、まがいもない同胞の青年であったというような時であった。某青年は声の低いためと、呼び留められても答えのはっきりしなかったためと、宵闇の町を急ぎ足に奔り過ぎようとしたためとで怪しまれ、血眼になって町々を警戒して居た人達に追跡せられて、そんな無残な最後を遂げたという。」

情報統制の解除を受け、ようやくこれだけのことを書くことができた、と言うべきだろう。

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