千住警察署に収容された朝鮮人たち(『関東大震災写真帖』聯合通信社)

 

国家ぐるみで虐殺の忘却を決めこむ中、朝鮮人は震災後もその現場で生きなければならなかった。朝鮮に帰還した人々も、その後長く恐怖体験の記憶から解放されることはなかった。そして、日本が極限状況に陥るたび、流言蜚語は再来した。(劉永昇

◆日本を離れても…

復興が進み震災の風景も記憶も消え去る中、朝鮮人だけが、ひとり虐殺の記憶の中に閉じ込められていた。それは朝鮮に帰還した者も同じだった。

震災当時、東京物理学校(現・東京理科大)の留学生だった李性求は、学費を稼ぐための仕事に向かうところを、雑司ヶ谷を過ぎたあたりで日本人の避難者に殴りつけられ、大塚警察署に連行された。地下足袋をくるんでいた新聞にノロ鹿狩りの記事があり、そこに「銃」という文字があったのを見咎められたのであった。

警察署では「明日殺すんだ、今日殺すんだ」という話ばかりで、半分死んだようになった朝鮮人が新しく入ってくるのを見て、「あ、これは私も殺される」と思ったという。

1週間以上も警察署に収容され、やっと釈放されたものの下宿に帰る途中で迷ってしまい醤油屋で娘さんに道を尋ねた。彼女は道を教えてくれたはいいが、すぐに「あそこに朝鮮人が行く!」と大声で叫び、自警団の青年たちが追いかけてきた。

「捕まったら殺される」と思い、近くの交番に飛び込んで助けを求めたが追ってきた自警団に交番内で暴行を受け、警察官も彼を殴りつけた。

1926年に東京物理学校を卒業した李性求は、朝鮮に戻って学校に勤務した。しかし、後ろから生徒の走る音が聞こえると身体がいつも硬直したという。(ほうせんか編著『増補新版 風よ 鳳仙花の歌をはこべ』)

広島で被爆した朝鮮人の聞き取りまとめた『白いチョゴリの被爆者』。極限状況で行われた差別の実態を語る証言が数多くの掲載されている(広島県朝鮮人被爆者協議会編、1979年、労働旬報社)

◆空襲下で、原爆被爆下で

暴力行為のトラウマが人生の長期にわたって被害者を苦しめることは知られているが、ここではそれが個々の体験者の心的領域にとどまらないことを見ていきたい。

理不尽な虐殺体験は、被害者の属する集団内で記憶として共有され、集合的な無意識に埋め込まれて後の世代に継承されていった。朝鮮人の精神の中でくり返し虐殺の記憶は回帰したのである。

とりわけ戦時下において、それが顕著に見られる。『特高月報』1943(昭18)年1月分には、愛知県の朝鮮基督教会内での議論として、

「日本内地に居る朝鮮人にとって一番危険なことは、空襲そのものの害よりも日本国内が混乱した場合、それを鎮圧するため朝鮮人を虐殺することである」

と述べ、「関東大震災当時のようなことがこの度も起きる可能性」について危惧しているという記載がある。

また1945年3月10日、関東大震災の体験者である李珍鎬は空襲から逃れるため家族を伴って東京から千葉へ避難しようとする。平井大橋にたどり着くと多くの避難民がそこで休んでいた。

李珍鎬は橋を渡る時、家族に「一言もしゃべるな」と告げた。橋のかかる葛飾区は、まさに関東大震災での虐殺現場だった。李は朝鮮人であることが知られてはいけないと思ったのである。
(鄭永寿「関東大震災時の虐殺事件によるトラウマ的体験とそのゆくえ」)

広島市内の軍需工場で働いていた被爆者が多いことから「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川(ハプチョン)出身の厳粉連は、原爆で被爆してリヤカーに乗せられ救護所に向かう途中、父親に「絶対に韓国語を使うたらいけん」と言われた。

関東大震災で朝鮮人が放火したという流言が広まったように、この混乱下でも朝鮮人が暴動を起こすと疑われ、「犬に附ける薬はあるけれどお前たち朝鮮人につける薬はない」と治療を拒否されるからだと。(丸屋博・石川逸子編『引き裂かれながら私たちは書いた 在韓被爆者の手記』)

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