タリバン政権崩壊後も軍事作戦は続いていた。当時、民間機はなく、国連の飛行機でアフガンに入った。(2002年2月・撮影:アジアプレス)

◆タリバン後のカブールへ
カブールは灰色と土色の混ざり合った街だ。土塀に囲まれた家並みがつづき、街全体が車の排気ガスと砂挨に包まれていた。
タリバン政権崩壊から3ヵ月がたっていた。街のあちこちにはタリパンを称賛する看板がまだ残り、通りを歩く女性のほとんどが、頭の先から足元までを隠す青いブルカに身を包んでいた。

私はイスラム風に黒スカーフを頭に巻いて、顔をだして歩いていた。すれ違う男たちの視線が突き刺さる。
「タリバン時代は、通りで女性の顔を見ることなんてなかったのよ」
女性の通訳が笑って言った。

ある日、路地で遊ぶ子どもを撮影していると、玄関の扉の隙間から女性たちが私を見ていた。私が笑顔で手を振ると、彼女たちは「おいで、おいで」と私に手招きをする。

招かれた部屋のなかでは、じゅうたんの上に座り込んだ女性たちがお茶を囲んでいた。赤や黄色などの色柄のワンピースに、ゆったりとしたズボンをはいて華やかだ。

カブール市内を歩くブルカ姿の女性。(2002年4月撮影:玉本英子)

 

日本のメディアは、「タリバン政権崩壊後、これまで外出時の着用を強制されていた女性たちがブルカを脱ぎはじめた」と伝えていた。タリバンによる女性抑圧の象徴といわれたブルカだが、彼女たちはどう感じているのだろうか。
「別に昔からあるものだから気にならないわ」
「外に出るときに靴をはくのと同じようなものよ」

意外にも「タリバンに強制されてつらかった」という意見を聞くことばない。「タリバン政権の前に大学に行っていた女の子は嫌だったろうけどね」と中年の女性はつけ加えた。

ザルミーナの情報を求めて取材をはじめた私だが、カブールにはまだ人権団体などはなかった。国連事務所や法務省などにも足を運んだものの、情報は皆無だった。だが、取材は思わぬところで進展することになった。

私は、その家にいた女性たちに、処刑されたザルミーナについても尋ねてみた。

すると、
「夫の暴力に耐えられなくなって殺したんだって」
「殺す前に、夫に睡眠薬を飲ませて眠らせたのよ」
と皆、驚くほど知っていた。噂で聞いたのだという。
メディアというものがほとんどなかったアフガニスタンでは、噂が人びとの強力な情報源となっていた。

タリバン政権崩壊から3カ月後のカブール。雪が山肌を白く染めていた。(2002年2月)

 

「もっと詳しく知っている人がいるから紹介してあげる」
私は、夫を失ったある女性を紹介された。女性の就労が禁止されたタリバン政権時代、その女性は各家庭をまわって掃除や洗濯の仕事をしていた。

戦争や病気で夫を亡くした人は多い。そうやって彼女たちを扶助するしくみが、自然と出来上がっていた。
その女性は、仕事で回った先々の家の人たちが話す噂を聞いて情報を得たのだという。私は、彼女から得た情報をたよりに、話からききだした地区におもむき、時には戸口をたたいてたずねまわった。

そして家族の家や夫を殺した事件現場を探しあてた。(つづく)【玉本英子】

第2回 >>>

 

(14・最終回)裁判所で見つけた警察調書と顔写真 写真2枚
(13)娘の最後の日 写真3枚
(12)競技場での公開処刑 写真6枚
(11)カブールの売春婦たち 写真4枚
(10)女子刑務所で 写真5枚
(9)タリバンは巨大な悪なのか 写真4枚
(8)タリバン支持の村に暮らす次女 図と写真3枚
(7)長女が語った意外な言葉 写真4枚
(6)遺された子どもたち 写真6枚
(5)札びらを切る外国メディアの姿 写真4枚
<特選アーカイブ>アフガニスタン~「ザルミーナ」公開処刑された女性を追って(4)写真6枚
<特選アーカイブ>アフガニスタン~「ザルミーナ」公開処刑された女性を追って(3)写真3枚
<特選アーカイブ>アフガニスタン~「ザルミーナ」公開処刑された女性を追って(2)写真4枚
<特選アーカイブ>アフガニスタン~「ザルミーナ」公開処刑された女性を追って(1)写真4枚

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