実のところ、イランにおける出産時の妊婦の死亡率は決して高くはなく、出産の安全度は、途上国の中ではかなり上位に位置する。それは、この国の医療 全般の水準の高さからも十分に納得のゆく結果だが、それでも、内診、触診が一切ないということは、初めての妊娠生活を異国で送る私たちに漠然とした不信感 を抱かせるものだった。

そんな獏とした不信感がはっきりとした自覚に変わったのは、妊娠13週目、妻が激しい腹痛を訴え、出血した夜のことだった。

夜の10時を過ぎていた。慌てて市立診療所に電話をしたが、頼みの女医さんは不在。明日は来られるのかと訪ねたが、受付の男はサッカーの中継でも見ていたのだろう、ろくに調べもせず電話を切り、もう受話器を取ってはくれなかった。
電話機ごと壁に叩き付けたい衝動をぐっとこらえ、これまで訪ねたいくつかのクリニックに電話をかけた。ようやく一つに繋がった。今からでも診てくれるという。アパートのオーナーの息子さんが車を出してくれることになった。

深夜だが、そのクリニックの女医さんは嫌な顔一つせず私たちを迎え入れた。この女医さんは以前、普段は内診しないが、もし何か重大な問題が起こった なら内診をすると言ってくれた人だった。電話ですでに出血のことを知っていた先生は、しかし、内診ではなく、近所にある超音波検査所に行ってエコーを撮っ てきなさいと告げただけだった。

真っ暗闇の中で、その大病院の夜間診療入口をようやく見つけ、事情を説明してエコー室に通してもらう。
初めて行うエコー検査だった。私一人、廊下で待っていると、しばらくしてエコー室から入室するよう声がかかった。若く、はきはきとした女性のエコー技師さんが、私にエコー画面を見るように言う。そこには、元気に肢体を動かす胎児の姿があった。

「90パーセント、男の子ね。さっきまでアレがはっきり見えてたのよ」

胎児が元気であることに安堵したのも束の間、いきなり男の子であることを告げられ面食らった。13週目で性別が分かるとは夢にも思っていなかった。 女性技師さんは尚も私に「アレ」を見せようとがんばってくれたが、残念ながらそのチャンスには恵まれなかった。いずれにしても、なぜかそのときに限って元 気いっぱいに手足を動かしてくれた胎児の姿に、私と妻はひとまず胸をなでおろしたのだった。

それ以来、何か問題が起こるたびに、まず産婦人科を訪れ、エコーの処方箋をもらい、近所の超音波検査所で胎児の姿と心音を確認するようになった。ついぞ内診を受ける機会には恵まれなかった。

その一方で、私たちはイランのエコー技師への信頼を深めていった。イランでは、医薬分業だけでなく、診療とエコー検査も分業されており、街中にはエ コー検査専門の施設がいくつもある。かれらはエコー専門の技師であることから、とても丁寧な作業を行ってくれる。日本の妊婦検診で撮ってもらえる胎児のエ コー写真は、うまく写ればラッキー程度のものだが、イランの技師さんたちは、強いプロ意識をもって、姿形をしっかりと画像に納めるまで諦めることはない。

この頃になると、日本で産むか、イランで産むかという選択にも、そろそろ答えが出つつあった。イランでは帝王切開がほとんどであり、出産翌日には母 子ともども退院するのが普通だ。親族がイランにいない私たちには無理な話であり、妻は元より日本での出産を望んでいた。もし信頼のおける病院や先生にめぐ り合えたらイランでも構わないと言ってくれたが、それも私の意向を汲んでのことだ。

一方私は、もともとイランの医療には信頼を置いていたが、こと出産に関しては、容易には乗り越えられない習慣の違いがあることを感じていた。それ に、全幅の信頼を置ける先生や病院が見つかったわけでもない。仮にその病院に信頼の置ける先生がいようとも、見知らぬ受付の男にかかれば、ぞんざいな扱い を受けることだってある。立会い出産など認められないこの国で、分娩室で思わぬ事態が生じたとき、言葉さえ不自由な自分が妻と子を守れるのか。一旦日本に 帰国するのが賢明だなと、新たな年を迎える頃には考え始めていた。(つづく)

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